プレートルのプーランク「牝鹿」、「典型的動物」ほかを聴いて思ふ

poulenc_concertos_musique_symphonique_pretre105ヘッセの「シッダールタ」の中の「輪廻」と題される章を読んで思った。
この現実世界は「遊戯」だと彼は表現した。なるほど、たとえそれが幻想であったとしても一度きりの生を愉しむことだろう。とはいえ、魂は転生するゆえ実際には一度きりではない。よって覚者は無意味な戯れの反復からの脱却を願った。

だが、何よりもいやでたまらなかったのは、自分自身、自分の髪のにおい、自分の口から出る酒の臭気、自分の皮膚のたるんだ疲れと不快感だった。あまりに飲んだり食ったりしすぎて、苦しみながら吐き、やっと軽い気分になれたのを喜ぶ人のように、眠れぬ彼は、あふれるようにこみあげる嘔吐感の中で、この享楽から、この悪習から、無意味なこの生活全体から、自分自身から脱却したいと願った。
ヘルマン・ヘッセ著/高橋健二訳「シッダールタ」(新潮文庫)P105

この夢がさめてぱっとはね起きると、彼は深い悲しみに包まれているのを感じた。価値もなく、意味もなく、生活を送ってきたように思われた。生命のあるもの、何か値打ちのあるもの、保存に値するものは、何ひとつ彼の掌中に残っていなかった。岸べの難破者のように、ひとり空虚に彼は立っていた。
~同上書P106

この遊戯は輪廻(サンサラ)と呼ばれた。小児人たちのための遊戯だった。1度、2度、10度と戯れるには、たぶん優美な遊戯だった―だが、くり返しくり返し戯れるのは?
ここでシッダールタは、遊戯が終わったことをもはやこれを演じ続けえないことを悟った。身震いが彼のからだを走った。自分の内部で何かが死んだのを、彼は感じた。
~同上書P108

(音楽)芸術は永遠であるけれど、そこには聖なるものも俗なるものも含まれる。であるがゆえ、小難しく考えず、生を謳歌するひとつの手段として捉えるが良い。バレエ・リュス後期の作品群は、どちらかというとそのことを明らかにしたものだったのでは?例えば、1924年に初演されたフランシス・プーランクのバレエ「牝鹿」。
いかにもフランス的エスプリに満ち、絢爛。そんな中、時折何とも気怠い音調が横切り、聴く者を実に幻想的な世界に誘ってくれる。
語弊のある言い方になるが、酒池肉林の匂いとでも言おうか。先のヘッセの「シッダールタ」において彼が「悟りを得る」プロセスとはまるで正反対の、あまりに人間的、現世的な調べ。何年か後にか起こる悲惨な世界大戦直前の、刹那的な人工的愉悦とでも表現しようか。なるほどそこに、委嘱元であるバレエ・リュスとセルゲイ・ディアギレフの「黄昏」すら僕には逆に感じられる。

この週の終わりにわれわれは2つ目の新作「牝鹿」を初演し、シーズン最大の成功を収めた。とても「現代的」な内容は音楽とよく合っていた。プーランクは有名な「六人組」の一人で、パリの前衛音楽の一角を形成していた。「牝鹿」にはストーリーはなくて、ニジンスカが男性3人と大勢の女性のために「ロンド、踊りによる歌、ラグ=マズルカ、ゲーム」と舞曲をつなげて、多彩で陽気な振付をした。舞台美術を担当したのはマリー・ローランサンだった。背景は大半が白で、その上に淡い青や他の薄い色が張り合わされており、これらの色は衣装にも使われていた。このバレエは全体としては表面的で深い意味はないのだが、優れた娯楽作品で、大いに観客を楽しませた。
セルゲイ・グリゴリエフ著/薄井憲二監訳/森瑠依子ほか訳「ディアギレフ・バレエ年代記1909-1929」(平凡社)P216

楽しければとにかく良いのだ(良かったのだ)。

・ピアノと18楽器のための舞踏協奏曲「オーバード(朝の歌)」FP51
ガブリエル・タッキーノ(ピアノ)
ジョルジュ・プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(1965.5.3&13録音)
・バレエ音楽「牝鹿」FP36
アンブロジアン・シンガーズ
ジョルジュ・プレートル指揮フィルハーモニア管弦楽団(1980.11.24&25録音)
・バレエ音楽「(ラ・フォンテーヌの寓話による)典型的動物」FP111
ジョルジュ・プレートル指揮パリ音楽院管弦楽団(1965.5.4&6録音)
・マルグリット・ロンの名による変奏曲(牧歌)FP160~ブコリーク
ジョルジュ・プレートル指揮フィルハーモニア管弦楽団(1980.11.24&25録音)

とはいえ、一層素晴らしいのは、1940年にパリ・オペラ座から委嘱され、創作されたバレエ音楽「典型的動物」。ほとんど映画音楽のような華麗な描写が滔々と続くが、映像的である分、音楽に生気が漲る。若きプレートルの指揮は音楽のどの瞬間も疎かにせず、実に色彩感満点。
そして、ブコリークの子守歌のような美しく静謐な音楽に心が晴れる。

ところで、バレエ・リュスが最後の年、すなわちディアギレフが亡くなるその年に上演した作品たちは、かつての輝きを取り戻すかの如く絶賛を博したのだと。やはりマンネリの脱却が重要だということと、いかにも一般大衆好みの、あるいは公衆に迎合するようなものは寿命が短いということだろう。

バレエ・リュス存続最後のこの年(1929年)は、「ディヴェルティスマン」と呼べるバレエがたくさん上演され、またストーリーがあり、明瞭な登場人物が存在する作品に戻ったことが目を引く。私はこの変化を何年もの間待っていた。どうしてこうなったのかを説明するのは難しいが、おそらくディアギレフがバレエ・リュスに興味を失うにつれて、コフノが思い通りに行動できるようになり、コフノは場面と踊りの連続ばかりを考案するのに飽きて、理路整然としたテーマを設けるほうを選んだ、ということではないだろうか。もしそうなら、彼は間違いなくわれわれを救ったと考えてよいと思う。
~同上書P283

 

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