ワルター指揮コロンビア響 マーラー 交響曲第1番(1961.1&2録音)

僕のマーラー体験の最初は、ブルーノ・ワルターの指揮による交響曲第1番だった。
それは、老巨匠が青春の一コマを懐かしんで回想するような、明朗で、また心が弾む、美しい音楽というだけでなく、師マーラーへの尊敬と慈愛に溢れた立派な演奏だった。

ヴァルターのマーラーは、あの神経質で爆発的な歓喜と絶望の交錯の中でさまようバーンスタインのそれとはひどくちがう。また、それは草いきれのむんむんするような野趣にみちたクーベリックのそれともちがい、洗練された都雅を失わない。
「吉田秀和全集5 指揮者について」(白水社)P23-24

音楽を表現する吉田さんの言葉に感嘆する。
その通りだと僕は思う。

劇場事務局ではじめて出会ってからまだまもない頃に、マーラーはふたりの妹といっしょに住んでいた自宅に、私を招待してくれたのであった。練習のすんだあと、グリンデル・アレーやローテバウム・ショセーを歩いて、彼をそこまで送ったこともよくあった。ふたりの会話は、かぎりなくさまよう彼の心に開けていた、あのすべての広大な領域におよんだ。私は16歳も年長である彼の、芸術的ならびに精神的な優越を腹蔵なく認めていたけれども、一方では自分に、彼の魔神的な天性を深く理解する力があることをかたく意識していた。当初の人みしりがとけるやいなや、私は彼の創作についてたずねた—すると彼は、あの花ひらくような冒頭部と、天才的な葬送行進曲と、荒荒しい終楽章とを持った奔放な青年時代の作品『第一交響曲』を、私にピアノで弾かせてくれた。また、スコアに最後の一筆を書きこんだばかりの『第二交響曲』を、弾いてきかせてくれた。また『嘆きの歌』も見せてくれたし、まだ世に知られずに机のなかに寝ていた、ピアノやオーケストラ伴奏のリートをうたってくれた。彼にみちびかれて音楽の新天地をさまよい歩いたときの震撼を、どうしたら描写できるだろうか。だがまた、この強力な人間の、世界苦にむかって開かれ、神を憧れる、えぐられたような魂のなかを見たときの感動を、どうしたら報告できるだろうか。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P118

師グスタフ・マーラーに出会ったときの感激と畏怖を、これほどまでに新鮮に、的確にとらえた文章があっただろうか。ワルターの内に存在するマーラーへの尊敬と献身と、そういう一切のものが刷り込まれた、ワルターの人生の総決算たるマーラー演奏が悪かろうはずがない。

・マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団(1961.1.14/21, 2.4/6録音)

終始一貫して若々しい、そしてフレーズのすべてが生命力に富む名演奏。
若書きの駄作だという認識の朝比奈御大は、果たしてこの演奏を聴かなかったのかどうなのか、虚心に耳を傾けるにつけ、青春のマーラーの内にもすでに死への憧れと恐怖が同居し、それが普遍的な愛へと結びつく、そんな印象の、神がかり的交響曲第1番。
第1楽章からマーラーは、ワルターは自然と、宇宙と対話する。あるいは、終楽章は単に「荒々しい」だけの音楽ではない。ワルターの老練の棒で聴くそれは、実に有意義で、堂々たる、そして清廉な大自然讃歌だ。

マーラーの活動から受ける印象はもちろん、私を激励したばかりではなく、ときには意気阻喪させることもあった。「これほどにりっぱな巨匠とほんの少しでも肩をならべられるような仕事が、いったいこの私にできるときがいつかあるだろうか」、こう私は自問した—ところが或る日マーラーの妹ユスティーネが、こんなことをうちあけてくれた。兄があなたの指揮した『アイーダ』を何幕か聞いたあとで、私の部屋に入ってきて、「やつは生まれつきの指揮者だよ」と言っていました。これがどれほど私を幸福にし、私に勇気を与えてくれたかは、いまだに忘れられない。
~同上書P116

当人の回想ほど生々しく、真実味に溢れるものはない。指揮者ブルーノ・ワルターが真に誕生した瞬間なのだろうと思う。

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