ハンガリー、ボヘミア、モラヴィアなど広大な支配地域をもつオーストリアは一つのまとまった民族国家ではなく、諸民族の巨大な集合体と呼ぶべきものであり、19世紀の半ばをすぎる頃からは、各地で民族自立の動きが起りはじめていた。1848年の革命の年に即位した皇帝フランツ=ヨーゼフ一世はそのような中、ついに絶対主義的支配の道を放棄し、1860年10月21日に「十月勅書」と呼ばれる声明を発布、各民族の自治を大幅に認める方向を打ち出した。それに沿った形で、ユダヤ人の居住制限も緩和されるなど自由主義的空気が広がり、オーストリアは近代的立憲国家への第一歩をふみだし、その首都たるヴィーンも新しいイメージのもとに生まれ変わっていく。マーラーが生まれた1860年とは、そのような年にあたっていたのである。
~「サントリー音楽文化展’89 マーラー」カタログP56
コラージュ的手法が極限まで拡大され、音楽が一体どこに向かうのか、はじめのうちは理解するのに苦労したが、マーラーが生きた当時の歴史、環境や空気感というものを理解するにつれ、すべての作品に通じる厭世観と希望とが垣間見え、しかも、どの作品も新たな方法に溢れ(ベートーヴェン同様)、一つとして同じ雛形に由らない点が素晴らしいと思えるようになった。極めつけは、ピエール・ブーレーズが振ったマーラーだった。
彼の音楽の中には異郷があるのかもしれない。
とはいえ、マーラーにとって何処が故郷で何処が異郷だか実はよくわからない。そもそも彼は、チェコのモラヴィアに近い寒村カリシュト生まれ。当時はオーストリア=ハンガリー二重帝国に属していたうえに家系はユダヤ人。よく言えば、ユダヤとスラヴとゲルマンの要素を融合した位置だが、悪く言えばユダヤにもスラヴにもゲルマンにも属さないコウモリのような位置である。
(吉松隆「異邦人マーラーの中の異郷の夢」)
~キーワード事典編集部編 作曲家再発見シリーズ「マーラー」(洋泉社)P80
三重で居場所を持たなかったマーラーの深層の苦悩たるや。
そんなマーラーが自分の交響曲に好んで組み込んだ異種は、逆に民族的風味として組み込まれた同種以上に深層意識を反映させることになっているのは皮肉だ。原風景に聞こえる民族舞曲としてのレントラー、ウィーンへの憧れの残照としてのワルツ、俗世界から意識を中断するものとして登場する軍楽隊やブラスバンド、そして挿入され引用されるものとしての民謡や俗謡。そのまま精神分析に使えそうな素材ではないか。
~同上書P81
吉松隆さんの論に納得だ。
長尺の交響曲第3番に僕はずっと腰が引けていた。
そんな中、二十世紀バレエ団による「愛が私に語るもの」を観て、道が開けた。少なくとも後半3楽章は、ジョルジュ・ドンとショナ・ミルクの踊る姿に魅了されながら僕のものになっていった。
第1部(第1楽章)の闇に対して、第2部(第2楽章~第6楽章)に徐々に広がる光。相変わらず相対世界に引きずられながら、マーラーは考え、感じる。大自然を謳歌するマーラーの思念をブーレーズは揺るぎない知性で煽る。ここには死の匂いはなく、どの瞬間も生の希望でいっぱいだ。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」からの言葉を歌詞にした第4楽章を歌うフォン・オッターの深みのある愛くるしい(?)声に感嘆、続く第5楽章の天使の歌を序奏とし、呼吸深く愛に慄く(?)終楽章のあまりの美しさに言葉を失う(マーラーの創造した音楽中随一のもの)。
私の交響曲は、世界がいまだかつて聴いたことのないようなものとなるでしょう。そこでは全自然がみずから声を得て、人間がかろうじて夢の中でだけ予感しうるような深い秘密を語るのです。
(グスタフ・マーラー)