マゼール指揮ピッツバーグ響 ワーグナー 言葉のない「タンホイザー」(1990.12録音)

《タンホイザー》第2幕の歌合戦のタンホイザーの歌の後、他の吟遊詩人たちが猛然と反論する中、エリーザベトだけは密かにタンホイザーの歌に喜びの表情を浮かべて賛意を示しています。そして第3幕、聖母マリアに祈りを捧げるなかで、自分が官能的な愛に憧れたと告白しています。そしてヴァーグナーはこの《タンホイザー》を、パリ版、ウィーン版と改訂しつづけます。それは、彼の死の3週間前(1883年1月23日)に書かれた妻コージマの日記からも明らかで、「ヴァーグナーは、自分がいまだ世の中に《タンホイザー》という借りを負うている」と述べたというのです。
人間にとって、生とは何か、性とは何か、そして聖とは何か、さらにそこに生ずる人間の欲とは何か。それらを追い求めつづけた結果が、これらの台本に集約されています。

井形ちづる訳「ヴァーグナー オペラ・楽劇全作品対訳集1―《妖精》から《パルジファル》まで―」(水曜社)P5

井形さんによるまえがきのこの言には、ワーグナーの生きざまや創造原理だけでなく、人間にとって重要な生死の問題の解決の術を追究しようとしたワーグナーの本懐が見てとれる。なるほど彼女が言うように、どこまでいっても因果律の中にある僕たち人間の終わることのない輪廻の解決をいかに彼が求め続けたかが理解できるのだ。

ちなみに、孔子は「論語」のなかで、人間の修養について「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」という。詩と音楽の一体を目論み、舞台綜合芸術なるものの完成を希求し続けたワーグナーの意思の原点がここにあり、孔子に倣ったのか、いや、ひょっとすると彼は孔子さえも超えようとしたのではないかと思われるほどだ。

ワーグナーの音楽は人間的でありながら、大宇宙のすべてを包括するだけの「何か特別なもの」がある。言葉では表し難い、何か畏れ多い力がそこには漲る。

ワーグナー:言葉のない「タンホイザー」
・序曲
・第1幕
・第2幕
・第3幕
メンデルスゾーン合唱団(ロバート・ペイジ:合唱指揮)
ロリン・マゼール指揮ピッツバーグ交響楽団(1990.12録音)

あえて言葉(詩)を外し、音楽のみでワーグナーの神髄を伝えようとせんとするロリン・マゼールの慧眼よ。序曲から極力情感を排除した、不思議に即物的な解釈に、生と性、そして聖は実はつながっていて本来一つなのではないのかと思うくらい。

全能の処女マリアよ、私の願いをお聞き届けください!
褒むべき御身に訴えます!
御身の御前にひれ伏して果てさせてください、
この世から私をお召しください。
私を天使のように清らかなまま
御身の至福の国に入れさせてください!
かつては愚かな妄想に囚われ、
私の心は御身から背いておりました。
罪深い欲求、
世俗の憧れが私の中に芽生えておりました。
ですから、それと戦うのに非常に苦しみました、
その欲求を私の心から消し去ってしまおうと!

~同上書P210

第3幕でのエリーザベトの告白も、厳しい桎梏からの救済を願ったタンホイザーの独白も永遠の輪廻から抜け出さんと希望したリヒャルト・ワーグナーの本心の投影であり、時代が未だ追いついていなかったときであっても生死の解決の術があることを彼は知っていたことを物語る(碩学リヒャルト・ワーグナーの天才!)。

しかし私が懇願したそのお方はこう言われたのだ、
「お前は悪しき快楽を味わい、
地獄の業火に身を焦がし、
ヴェーヌスベルクに留まったとしたら、
永劫の罰を受けるのだ!
私が持っているこの杖から
緑の新芽が出ないのと同様、
お前が地獄の業火から
救済されることは決してない!」
私は絶望して倒れ、
気を失ってしまった・・・

~同上書P214

言葉を外した音楽のみの「タンホイザー」は、「煩悩即菩提」であることを僕たちに示唆してくれる。日々言葉に翻弄され、思考から生み出された不安に苛まれる僕たちへの最大の啓示、それは、終幕においてタンホイザーの救済のシーンで歌われる合唱が言葉を排し、清廉なヴォカリーズで歌われることだ。

今や縁さえあれば誰もが救われる時代であり、ついにワーグナーが生涯をかけて希望した瞬間が目の前にある。生も性も、そして聖も一ひとつ。そして、欲があるからこその悟り。何と奧妙な世界なのだろう。

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