マルケヴィチ指揮ラムルー管のベートーヴェン「田園」交響曲ほかを聴いて思ふ

beethoven_6_markevitch062イーゴル・マルケヴィチがラムルー管弦楽団と録音したベートーヴェンの「田園」交響曲に心動かされた。ベラ・バルトークが激賞したほど作曲家として才能豊かであったがゆえなのかどうなのか、この人の音楽の運びは実に緻密でありながら決して恣意的に陥らず、極めて流れが良く自然体。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポは、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを髣髴とさせる遅さだ。しかし、興味深いのはフルトヴェングラーのようにデモーニッシュな体感は一切なく、むしろ「田舎についた時の」悠揚たる愉悦が見事に転写された表現であり、とても人間的。特に、再現部に入ってから、例えば第362小節以降のふくよかで神々しく膨れ上がる音響を伴う音楽は最高の自然讃歌であり、またコーダの弦楽器群が高揚してゆくあたりの熱気は他の誰のものより生々しい。
第2楽章アンダンテ・モルト・モッソは、ベートーヴェンが付した標題「小川のほとりの情景」そのものである。提示部はただひたすら淡々と音楽が奏でられるものの、展開部から突如としてエネルギーが上がる。弦楽器の妙なる美しさと木管群の可憐な歌が交錯し、コーダの崇高な音楽を最後まで支え続ける。そして、第3楽章アレグロを経て、極めつけが第4楽章の壮絶な「雷鳴と嵐」の表現であり、その後に続く第5楽章アレグレットの祈りのパフォーマンスなのである。第1楽章同様、マルケヴィチはゆったりとしたテンポで人々の大自然への感謝の念を一音一音に刻印してゆくのだが、音楽が最高潮に達した後のコーダでは何と一気にテンポを落とし、まるで能舞台を観るかのような神韻縹渺たる趣を醸す。この部分は、ヘルベルト・ケーゲルが自死する少し前に来日した折にサントリーホールで聴かせたあのパフォーマンスにとても近いものを僕は感じる。

彼の音楽性は孤高であり、峻厳だが、その(おそらく)人間性同様二面性があるのでは?それゆえ「田園」交響曲に関しても、表現の細部はユニークかつエキセントリックであり、テンポも揺れ、感情過多に聴こえる瞬間がある。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1957.10.21-25&11.8録音)
・「コリオラン」序曲作品62(1958.11.25録音)
・歌劇「フィデリオ」序曲作品72b(1958.11.29録音)
・「エグモント」序曲作品84(1958.11.25録音)
・「献堂式」序曲作品124(1958.11.28録音)
イーゴル・マルケヴィチ指揮ラムルー管弦楽団

そういえば、マルケヴィチはバレエ・リュスとの関係が深い。ちなみに、ヴァスラフ・ニジンスキーとロモラの間に生まれたキラ・ニジンスキーは彼の最初の妻。2人はほとんど「共依存」的な関係であっただろうゆえ破局も早かったのだが、キラがインタヴューに応え、父や自身について語る「踊りの聖人」が真に興味深い。

スウェーデンや東欧でも踊った。そのうち何故か恋に落ちて、結婚までしたわ。御存知?私の夫は作曲家で指揮者のイゴール・マルケヴィッチよ。5年間結婚生活が続いたの。息子まで生まれたりして。でも私はどうしてもダンスを断念できなかったし、夫は私にキャリア・ウーマンにはなってほしくなかったの。それで私が26歳の時に別れたわ。
市川雅編「ニジンスキー頌」(新書館)P93

何もマルケヴィチが彼女を縛って規制したことだけが離婚の原因とは思えない。何よりキラ自身の「外向性」と「開放性」から導かれる独善的、あるいは「気ままな(自由な)」性質が災いしたのだろうと僕には想像できる(マルケヴィチにも多分に同様の要素はあったはず)。

絵は9年間も独学したわ。私にとって絵筆を握るということは一種の愛の発露よ。創造。子供を生むのと同じ力。絵を描く時は、ラフマニノフやチャイコフスキーなんかを聴くの。
~同上書P95

創造行為が愛の発露だと説く彼女の思想は、そのままマルケヴィチの創造作業にも当てはまる。「コリオラン」以下、序曲は驚くべきことにベートーヴェンの悪魔的側面に焦点をあてたものでなく、幸福感に満ちた愛の結晶のような音楽として再現されており、実に明朗な音で開放感に溢れる。特に、交響曲第9番と「ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ曲)」と時を同じくして生み出された「献堂式」序曲の何という天上的恍惚感!
序奏における5つの和音は荘重で神々しく、そしてアレグロ・コン・ブリオの主部はまさに生の喜びに満ちる音調・・・。僕は2つの大曲の陰にほとんど顧みられることのないこの作品にこれほどの力を感じたことがいまだかつてない。「献堂式」序曲が、当時ほぼ悟りの入口にいたであろうベートーヴェンの頂点のひとつであることは間違いなかろう。

マルケヴィチは自己の芸術にこだわった。
キラ・ニジンスキーも自己の芸術、否、「自己」というものに固執した。
二元の世界で生きている以上、愛と憎悪は表裏一体だ。

いいえ、私は私の父でもなければ、私の母でもないわ。私はキラ・ニジンスキー個人よ。でも、これだけは言えるわね。若い頃、私は私の父のように踊りたいとは思った、と。父は私のインスピレーションでもあり、私の守護神的存在でもあるわ。それでも私はコピーはしない。
~同上書P96

(母と)私との間には、いつも女同士の嫉妬があったわ。あのニジンスキーの名を持った人物として存在したかったのね。でも、私がいたわ。私もニジンスキーだもの。
~同上書P98

芸術家は誰しも本当に正直だ。その意味において彼らに偽りはない。

 

ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。


日記・雑談(50歳代) ブログランキングへ


2 COMMENTS

ukegawa

言ってること矛盾してませんか。

>>この人の音楽の運びは実に緻密でありながら決して恣意的に陥らず、極めて流れがよく自然体。
一方
>>表現の細部はユニークかつエキセントリックであり、テンポも揺れ、感情過多と言える。

エキセントリックの意味
外れている、変な、変わっている、違っている、異常な、突飛な

もう少し日本語推敲してから書き込んだほうがいいかと思います。
音楽の趣味は私と同じで記事自体は面白いので非常に残念というか歯がゆいです。

あと汚名は挽回じゃなくて返上ですよ。
ホロヴィッツも浮かばれませんよ。

返信する
岡本 浩和

>ukegawa様
コメントありがとうございます。
確かに矛盾しております!
とはいえ、その両方の側面を感じたんだと思います。キラとの関係もそうですが、一筋縄ではいかない人のように想像したのかもしれません。
ということで、文章を少し修正いたしました。
マルケヴィチについてはまだまだ知らないことが多いので、今後の課題にさせていただきます。
それにエキセントリックの使い方間違ってますね。
ご指摘ありがとうございます。

「汚名」の挽回⇒返上についても同様。
失礼しました。
以後気をつけたいと思いますが、思いつきでざっと書いている時多々なので、また同じような間違いを犯す可能性もあります。お許しください。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む