グールドのブラームス4つのバラード(1982.2録音)ほかを聴いて思ふ

稲光と雷鳴。
猛烈な豪雨が通り過ぎた後、蒸し暑い空気が残り、また俄かに静寂が訪れる。
残暑も残暑、猛残暑。
秋は遠いのかと思いきや、夜半に聞こえるのは秋の虫の声。
ブラームスだ、ヨハネスだ。
それも、グレン・グールドの奏するヨハネス・ブラームスだ。

最晩年のグールドのピアノは、いつも以上に透明だ。
21歳の青年ブラームスの、純粋無垢な、それでいて挑戦心の強い筆致の音楽が、奇を衒うことなく眼前に聳え立つ。

彼女はものも言わずにただ頷いた。けれども眼を伏せて、ラインハルトが手に持っているエリカばかりを見つめていた。二人はその姿勢で永いこと立っていた。彼女が眼をあげてラインハルトを見た時、その眼は涙にあふれていた。
「エリーザベト、あの青い山々の後ろにある僕たちの青春、あれはどこへ行ってしまったんだろう」
二人はもう何も話さなかった。黙ったまま並んで湖岸へ下って行った。むしむしして、西に黒い雲が出た。エリーザベトは足を速めながら、「夕立ちよ」と言った。ラインハルトは黙って頷いた。二人は岸に沿って足速に、さっき乗ってきた小舟の置いてある場所へ急いだ。
シュトルム/高橋義孝訳「みずうみ」(新潮文庫)P43

色彩豊かなグールドのピアノの魔法。
バラードは、文字通り詩的で、切なくも悲しい情景を喚起する。

ブラームス:
・4つのバラード作品10
—第1番ニ短調「エドワード・バラード」(1982.2.8録音)
—第2番ニ長調(1982.2.8-9録音)
—第3番ロ短調「間奏曲」(1982.2.9録音)
—第4番ロ長調(1982.2.10録音)
・2つのラプソディ作品79
—第1番ロ短調(1982.6.30&7.1録音)
—第2番ト短調(1982.6.30&7.1録音)
グレン・グールド(ピアノ)

与えられた時間が残り数ヶ月という中で、(本人は当然無意識に)全生命を尽くしてヨハネス・ブラームスを描くグレン・グールドの神々しさ。
もちろん僕たちはその事実を知っているがゆえ、一切の感傷を抜きに聴くことは不可能なのだけれど。

ともかく彼は少なくとも演奏解釈の面では、開かれた自由な音楽観を持っていた。これは疑いない。だが一方、自分の音楽を現前のきき手に伝達し、喜びを共有することを峻拒した。少なくとも32歳以後はそれを体験する機会を自らの意志で断絶した。たしかに録音は現前のきき手とは比較にならぬ、不特定多数のマスをその背後に予想してはいる。しかし、それは密閉された室内での孤絶の作業の結果である。音楽することの、最も原初的であると同時に最高の喜びでもある筈の、人の心と心の触れ合いについて、彼はいったいどのように考えていたのだろうか。
柴田南雄「グレン・グールドの音楽表現—出口なしのミクロコスモス」
~「レコード芸術」1982年12月号P168

36年を経た今、思う。
触れ合いの喜びを拒絶したグールドは、それこそ音楽を享受する聴衆のことだけを考えていたのだとも考えられる。聴衆の賞賛など、奏者の自己満足の種にしかならぬ不要なものなのだと。

それにしてもこのブラームスは素晴らしい。
何だかとても人間臭い。
グールドの録音が、このあとわずかで途絶えたことが本当に残念だ。

 

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