リヒテル ムーティ指揮フィルハーモニア管 ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番(1977.9録音)

ほとんど期待もせずに聴いたところ、不思議に心地良い演奏に感動した。
こんなに良い曲だったかと耳を疑ったほど。

4月も中旬に入ると陽光眩しく、とても気持ちが良い。そんな日にこういう音楽はぴったりだ。いまだ青春のベートーヴェン、しかし、闘争の匂いが残る、難聴との闘い激しい楽聖の心情を照らす第1楽章アレグロ・コン・ブリオと、それでいて静かな、安らぎの音調を保持する第2楽章ラルゴの美しい対比。終楽章ロンドの弾け具合も冷静で、実に音楽的だ。

ベートーヴェンは自身と闘っていたのだ。同時に、自身と一つになっていたのだ。
1802年4月22日の弟カールの、B&H社宛の手紙には次のようにある。

兄は現在まったく不機嫌で、というのは劇場支配人ブラウン男が・・・劇場を兄のコンサートに断り、他のまったく凡庸な連中に使わせたからで、兄がその夫人に何作も献呈してきた簿に。・・・交響曲(作品36)と協奏曲(作品37)に関して、もう少し待って欲しい、というのはそれらをなおコンサートで使おうと考えているから。
大崎滋生著「ベートーヴェン 完全詳細年譜」(春秋社)P131

自作への自負はもちろん、不当に扱われたことに対する怒りもあろうが、それだけではない内面の苦悩が不思議に読み取れよう。

ベートーヴェン:
・ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37
・アンダンテ・フォヴォリヘ長調WoO57
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)
リッカルド・ムーティ指揮フィルハーモニア管弦楽団(1977.9.19-20録音)

しかし、それでもリヒテルのピアノは明朗だ。
能天気なムーティの指揮につられたのかどうなのか、それはわからない。果たしてムーティの伴奏がリヒテルの演奏をスポイルしているのはないかという意見もあろうが、ここでの両者の協演は見事だと思う。

ところで、昨年12月、日本経済新聞の「私の履歴書」にリッカルド・ムーティが登場した。
そこで彼は、巨匠リヒテルとの出会いについて次のように記している。

1967年11月。雨の日だった。シエナ音楽院の練習室に入ると2台のピアノが置いてあり、あの大男リヒテルが立っていた。彼は向って左側のピアノに向かい、通訳を介して「あなたは右側に座ってオーケストラのパートを弾いてください」と告げた。私は内心、予想した通りだと思った。
テストは、まずモーツァルトのコンチェルト第15番から始まった。第1楽章から第3楽章まですべて一緒に弾かされた。弾き終わると、リヒテルは何も言わず第4楽章まであるブリテンの協奏曲へと進んだ。無事難曲を弾き終わると、リヒテルがこう言った。「あなたが今弾いたように指揮してくれるなら、一緒にコンサートで演奏しましょう」。こうして彼との協演が決まった。
フィレンツェでの演奏会を機に友人となったリヒテルは、私がヴォット先生の影響を受けて暗譜で指揮するのを見て「なぜ暗譜するのだい。目を使わないのか」と言ったことがある。この一言で私は必ずスコアを譜面台に於いて演奏するようになった。スコアは何年読み続けていても本番に新たな発見をもたらしてくれることがある。

(2022年12月13日付日本経済新聞、リッカルド・ムーティ「私の履歴書(12)リヒテル」)

恐ろしい(抜き打ち)テストである。
それでも(予想していた)ムーティは見事に合格した。そして、巨匠のアドバイスを忠実に守るようになったことが素敵だ。それに、なるほど「目を使わないのか」というリヒテルの言葉は重い。全身全霊で音楽を奏でてこそ真実が伝わるのだとリヒテルは言いたかったのだろう。

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