ヴァント指揮ケルン放送響 ブルックナー 交響曲第5番(1974.7.7録音)

『第五番』の渋くて分厚い音響は、ほかのどの交響曲にもましてオルガン的である。その緻密な構成と複雑な対位法によって、作曲技法上におけるブルックナーの神髄ともいえる。だが同時にこれらの特性が、この作品を近寄りがたいものにしていることも事実であろう。完成から14年後、この交響曲がようやくグラーツで初演された時、「フォルクスブラット」紙はこう論評した。
「ブルックナーが大衆的になることは困難であろう。彼を賞賛しようとするなら、まず彼を愛さねばならない」

田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P130-132

ブルックナーの最高峰といっても過言でない名作に、初めて聴いたときやはり僕は途惑った。とっつきにくい外形もさることながら、複雑な構成に、(フルトヴェングラーが絶賛した)特に傑作である終楽章の、最後に向かって収斂して行く様子と、一分の無駄もない音響に驚嘆しながらも当時僕はまったく理解できなかった。

しかし、ある日突然僕は開眼した。
もちろん繰り返し聴き続けた中での出来事であったことに違いない。
僕の目を覚ませてくれたのが、ギュンター・ヴァントその人だった。

・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(1878年ハース版)
ギュンター・ヴァント指揮ケルン放送交響楽団(1974.7.7録音)

ヴァント指揮ケルン放送響とのブルックナー全集の先駆けとなる交響曲第5番。いかにもヴァントらしい、造形のしっかりした、そして作品への愛情がたっぷりと込められた演奏は、これを聴いた人々に絶賛され、その後の全集制作へとつながったというのだから、実にエポックな録音だった。50年近くを経過しても音楽の素晴らしさは変わらず(これはもちろんブルックナーの作曲技法が完全であることの証でもあるのだが)、同時にヴァントらしい(この当時から)聖にも俗にも偏らない中庸さの体現に言葉がない。
何と言っても白眉は終楽章だろう。すべての楽想がここに極まって往く様子、そして、最後の歓喜を伴なった大団円は、ひょっとするとベートーヴェンが「合唱」を導入する前にイメージしていた形ではなかったかと思わせるほど。大宇宙の深遠な音の大伽藍にいつ聴いても興奮する。

ブルックナーの信仰は日々の生活に反映されていた。心優しく寛容であり、少年聖歌隊のリハーサルには、いつもたっぷりしたポケットにキャンディーを何袋も詰め込み、少年たちに持って行った。適度に控え目で真の優しさがあり、助けてくれた者には、常に偽りない感謝の気持ちを示した。穏やかな物腰だったため、臆することない信念を抱いていながら、決して他人を不快にさせる態度はとらなかった。一つ逸話がある。講義中、作曲家はあるユダヤ人学生が講堂に座っているのに気がついた。彼はこの学生のところに行き、頭の上に優しく手を置いてこう尋ねた。「君は救世主がまだ来られていないと本当に信じているのかね?」
パトリック・カヴァノー著/吉田幸弘訳「大作曲家の信仰と音楽」(教文館)P164

厳格な外見に対しての内面の優しさこそ真の慈しみとはいえまいか。

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