友人や知己の訃報に接することが多くなった。
ある時、つい数年前のことだが、妻のすすめで喪服を調えた。そんなものを拵えても実際に袖を通すことは極くたまだし、あまり気もすすまなかったが、それでも出入りの服屋に間の黒服を仕立てて貰った。だが、それから僅かな間に随分とそれを着けなければならないことになった。
観念では、死はつねに身近にあったが、感覚的には捉えようもないものだった。充溢する生の蔭にいつもぽっかりと黯い口をあけて、死は私たちを待っている。そう理解しながらも、死の歩調が己の間近に迫っていようとは考えもしなかった。死は避けえぬものなら、私の周りに次第に貌を顕しはじめたかれと親しむことを考えてみなくてはならない。
「死の巡り」
~武満徹「音楽の余白から」(新潮社)
これを書いて後、武満はまだ20年近くも生きる。
何歳になっても死は恐るべきものなのかもしれないが、彼が言うように、「親しむこと」を考えてみた方がもっと喜びに溢れる人生を謳歌できるのではないかと思う。
武満徹が亡くなって早30年近くの月日が流れる。彼の音楽には生も死も刻印される。暗くもあり、また明るくもある。
ドビュッシーのような浮遊感を狙ったのだと本人はいうけれど、ドビュッシーにはない、もっと東洋的な、否、日本的な、八百万の信仰が自ずと音楽に刷り込まれているように僕には思える。
小澤征爾は武満作品を数多く初演した。
『カトレーン』は、アメリカの若い有能なアンサンブルであるタッシ(Tashi)と小澤征爾を念頭において、作曲された。
作品は、全体に亘って、〈4〉という数がその構造を支配している。だが、それは音程的な関係において最も強い。オーケストラによる序奏の後に、四重奏によって提示される8小節—最初の4小節のピアノとクラリネットによって奏される旋律的主題と、その背景を彩色するヴァイオリンとチェロによるグリッサンディ。そして、次の4小節ではそのふたつの要素が攪拌される。—の諸要素が、四重奏とオーケストラとの対話によって展開される。それは変奏曲というよりも、日本の伝統的な絵巻の様式に近い。
~「武満徹著作集5」(新潮社)P397
武満自身による楽曲解説に膝を打つ。
小澤とタッシによる有名な録音を聴いて隔靴掻痒の想いがあるとするなら、それは録音そのものの限界についてだ。これまでも幾度も書くように、武満徹の音楽は実演に触れねばその真価はわからない。しかしそれでも、見事に音楽そのものを幽玄に描く小澤征爾の日本人的センスに感激する。
「鳥は星形の庭に降りる」についても然り。
無数の白い鳥が、その星形の庭に向かって舞い降りていくんです。ところが、その中に一羽黒い鳥がいて、それが、群れをリードしていました。私はあまり夢を見ないほうですが、それだけに、その印象は強烈だったのでしょうね。目醒めた時、その風景がとても音楽的なものに思われて、これを音楽にしてみたいと思ったんです。
「夢と数」
(1984年4月30日Studio200(東京)において行われた講演による)
~同上書P16
夢の音化という何とも非日常的音楽こそ武満徹の真骨頂。
小澤の音楽は実に現実的だ。リアリストたる音楽はいつどんなときも熱を帯び、いかにも動物的な動きをする。
僕は小澤征爾の熱心な聴き手ではなかったから、訃報を聞いて、さて追悼のために何を聴こうか随分迷った。SNSなどネット上ではあまりにたくさんのお悔やみの投稿があり、やっぱり小澤は「世界の小澤」だったんだとあらためて思った次第。
個人的には1970年のパリ管弦楽団とのチャイコフスキーの交響曲第4番は大変な名演奏で、初めてそれを聴いたとき、僕は小澤の演奏を長らく無視していたことを後悔したくらい。それほどに素晴らしい録音だと今も思う。
長らく音楽監督を務めたボストン交響楽団のマネージャーが追悼の言葉を述べ、バッハの管弦楽組曲第3番からアリアが奏されたが、こちらもとても美しい、心に沁みる演奏だ。
小澤は録音も多い。いずれもが名演奏なのだろうと思うが、個人的にはやはり武満徹の作品への一方ならぬ愛情を思う。年齢を重ねるごとに武満の作品はますます「死の無限」と相似形の音調を示すようになっていく。遺作となった、ニコレの委嘱による「エア」など純白の、この世とも思えない、風のような、水のような音楽だ。心して聴けよ。
人間の生は束の間だが、死は無限だ。しかも、人間の意識の薄いヴェールを隔てて、死はつねに生の直中に生きつづけている。「死は虚無なのではなくて、すべては生きてあるもの、すべて存在しているものの実際の一致」なのだ。すると、こうして眺めている風景も、すべては死の風景だと言えなくはない。
「死の巡り」
~武満徹「音楽の余白から」(新潮社)
生と同義たる死は決して悲しむべきことではない。
ただし、生死の解決に至らぬまま死を迎えることはとても悲しいことだ。