ボロディン弦楽四重奏団 チャイコフスキー 弦楽四重奏曲第2番ほか(1993.1録音)

人々がそれによって教育され、支えられている教え、すなわち人間の生命を誕生から死までの動物的生存とする誤った教えのみが、理性的な意識のあらわれに際して人々が踏みこむ、あの苦しい分裂の状態をもたらすのである。
この迷いにおちこんでいる人には、自分の生命が分裂してゆくように思われる。

(第8章 分裂や矛盾はない。それが現われるのは、誤った教えの下でだけである。)
トルストイ/原卓也訳「人生論」(新潮文庫)P56-57

トルストイには真実が見えていたのだと思われる。
命そのものはどこから来て、どこへ還るのか、あるいは、命そのものは本来一つであることを彼は悟っていた。すべてを捨て、本来の自分に還ろうと彼は長い人生の後半を素で歩んだが、最終的に真理そのものを得ることはできなかった。

人間という存在における生命のあらわれを時間の中で検討し、観察しているうちに、われわれは、穀物のうちに生命が保持されているのと同じように、人間のうちにも常に真の生命が保持されており、時がいたると、その生命があらわれでてくることに気づく。真の生命の発現とは、動物的な個我が人間をおのれの幸福の方に引き寄せ、一方、理性的な意識は個人的な幸福の不可能さを示して、何か別の幸福を指示するということにある。
(第9章 人間における真の生命の誕生。)
~同上書P60

今ある個体のみを生命だと信じることを捨てよと彼は言う。
今ある個体は意識も含め仮のものだと気づけと彼は言う。

真の知識は、おのれを知るを知るとなし、知らざるを知らずとすることにある、と孔子は言った。誤った知識は、知らないことを知っていると思い、知っていることを知らないと思うことにある。われわれの間に君臨している誤った知識に、これ以上正確な定義を下すことはできないだろう。
(第12章 誤った知識の原因は、対象を捉える誤った遠近法である。)
~同上書P72

知識こそ足枷となり得る、人間の進歩、発展、向上を邪魔するものだということを知らねばならない。だからこそ老子は、「学を為せば日々に益し、道を為せば日々に損し、之を損して又損し、以って無為に至る」と示したのだと思う。

トルストイの思考は実にシンプルだったと思われる。彼がチャイコフスキーの「アンダンテ・カンタービレ」を聴いて涙したという有名なエピソード、そしてそのことを聞いた作曲家が、「あのときほど、喜びと感動をもって作曲家としての誇りを抱いたことは、おそらく私の生涯に二度とないだろう」と後年、日記に書いたことを思うにつけ、僕はそう思う。
青年期に書かれたわずか3曲の弦楽四重奏曲は、演奏機会は少ないものの隠れた名品だ。
中で僕が愛するのは第2番ヘ長調だ。

チャイコフスキー:
・弦楽四重奏曲第2番ヘ長調作品22(1873-74)
・弦楽四重奏曲第3番変ホ長調作品30(1876)
ボロディン弦楽四重奏団
ミハイル・コペルマン(ヴァイオリン)
アンドレイ・アブラメンコフ(ヴァイオリン)
ディミトリー・シェバリーン(ヴィオラ)
ヴァレンティン・ベルリンスキー(チェロ)(1993.1録音)

旋律の美しさ、懐かしさと全編に醸される抒情はチャイコフスキーのトレード・マーク。
第1楽章序奏アダージョからその悲痛さはチャイコフスキーの独壇場であり、心に響く。エレジー風の第3楽章アンダンテ・マ・ノン・タントこそ白眉だろう。呼吸の深い、真の生命に訴えかけるような音楽は、おそらくトルストイが聴いたら一層腰を抜かしただろう(?)感動的なもの。

ちなみに、ボロディン弦楽四重奏団には旧録音があり、総合的な印象では旧い方を推す。

過去記事(2013年4月24日)

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