サロネン指揮フィルハーモニア管 ストラヴィンスキー 3楽章の交響曲ほか(1989.10.18録音)

人間の確執の大本は、やっぱり「私が正しい」という思念のぶつかりにあるように思われる。
アーノルト・シェーンベルクとイゴール・ストラヴィンスキー。

この2人の作曲家が最初に知りあったのは1912年のことで、当時は2人とも相互の音楽を高く評価し、ベルクやウェーベルンと一緒に会食などもしている。しかしストラヴィンスキーが新古典主義を標榜し、シェーンベルクが12音技法を確立すると同時に、この2人は敵対する関係になり、2人ともインタビューや作品の中で相互の音楽を鋭く批判していたのである。したがってこの2人の作曲家は、同じ映画音楽の作曲に携わっている時でさえ、相互に会うことなく、ストラヴィンスキーがシェーンベルクに会ったのは共通の友人の詩人フランツ・ヴェルフェル、つまりアルマ・マーラーの3度目の夫の1945年8月の葬儀の時であった。ストラヴィンスキーは「死体置場でヴェルフェルに別れを告げながら立ち上がった直後、私は33年ぶりに、アーノルト・シェーンベルクの怒って苦痛にゆがんだ燃えるような顔に直面した」と語っている。しかしシェーンベルクもまた、1951年7月、《ワルシャワの生き残り》など、最晩年の激しい怒りの作品を残して異国の地で客死したのである。
このシェーンベルクの悲劇的な死は—たとえバルトークの死ほどではないにしても—、ストラヴィンスキーに大きな衝撃を与えた。ストラヴィンスキーは弟子のロバート・クラフトにシェーンベルクの創案した12音技法について質問をし、さらにさまざまな楽譜を検討し、ヨーロッパ旅行で聴いたベルクの《ヴォツェック》やシェーンベルクの《期待》に強い感銘を受けている。

「作曲家別 名曲解説 ライブラリー25 ストラヴィンスキー」(音楽之友社)P15-16

いかに自身の心を解放するか、寛容さを獲得するか、どれほどの天才といえども己に固執した瞬間に進歩、発展、向上は空論になるわけだ。戦うのは止めるが良い。
新古典主義からセリーへの移行、ストラヴィンスキーの変幻自在。自らの個性を溶かすだけの衝撃が必要であることはわかるけれど。

いわゆる「新古典主義」時代の最後の作品群の一つ、3楽章の交響曲。

ストラヴィンスキー:
・バレエ音楽「春の祭典」(1911-13)
・3楽章の交響曲(1942-45)
エサ=ペッカ・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団(1989.10.18録音)

形式をいずれに変えようと、ストラヴィンスキーの音楽に通底するのは信仰だ。それも、原始的な、人の心を鼓舞する根源的リズムに支配された(まるで鼓動のような)祈りに満ちた音楽だ。サロネンの指揮は、明確なリズムを刻み、そこに理知よりも人間本来の情感を乗せたオーラがある。それは「春の祭典」についても同じ。
それにしてもサロネンのストラヴィンスキーは、どの作品もエネルギッシュで、しかも他には見せない人間味が大いに漂う点が興味深い。それまでのすべての音楽語法を駆使して独自の交響曲を創造しようとしたストラヴィンスキーの個性をスポイルしないようにしつつ、まるで自分の作品であるかの如く自在に操る方法に感激する。
小編成による第2楽章の見通しの良いアンサンブルこそサロネン指揮フィルハーモニア管の真骨頂。そして、「春の祭典」が木魂する終楽章に横溢する希望は、戦後新たな方向を切り開かんとするストラヴィンスキーの狼煙だ。
サロネン万歳!

人気ブログランキング


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む