リリー・クラウス ボスコフスキー指揮ウィーン・コンツェルトハウス室内管 モーツァルト ピアノ協奏曲K.466ほか(1955録音)

考えてみると、私の音楽趣味はモーツァルトといっしょに育ってきたようである。ポリドールでシュトラウス指揮の「ジュピター」の電気吹込み盤を買ったのが最初で、昭和2,3年の交である。小林秀雄にフランス語を習いはじめた頃で、授業のあとで聞かそうかと言うと、小林はあんまり気が進まない様子だったが、やっと終楽章を掛けてくれと言った。しかし途中で「やめてくれ」と言った。テーブルと同じ平面まで頭を下げ、彼のその頃の癖で髪毛をいじりながら聞いていた格好を思い出す。奈良へ行くすぐ前だった。
大岡昇平「わが美的洗脳」(講談社文芸文庫)P73

大岡昇平は「モーツァルトさえあればよかった!」というほどのモーツァルト愛好家であった。成城学園で5歳下だった吉田秀和との「モーツァルトの50年」という対談が面白い。

吉田 優しい哀しみみたいなね、それがうけるんじゃないですか。だけど本当にモーツァルトは、短調だと哀しいというふうなんじゃなくてね。いまのピアノ・コンチェルト(第21番ハ長調K.467)がいちばんいい例で、長調でもそういう哀愁があるんですね。
大岡 そうですね。
吉田 それがモーツァルトの音楽のひとつの大きな特徴だと思うんですよ。だから、小林さんがゲオンから“走る悲しみ”ってな言葉をとってきた。素晴らしい言葉だけどね。日本ではト短調の弦楽五重奏のはなしのようになっているけども、あれはフリュート・クアルテット(K.285、ニ長調)のなかのロ短調の楽章についてゲオンは言ったんだけど、だけど、そういう感じはモーツァルトの長調の曲のなかにもある。あえて短調でなくても。そこがぼくはモーツァルトの特徴のひとつのような気がする。

~同上書P317

喜びを強調すれば哀しみは自ずと映える。逆もまた然り。それこそがこの世に生きることであり、モーツァルトは大自然と一体となって(意図せず)そのことを表現したのだと思う。だから、彼の音楽は感動的であり、また普遍的なのだ。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第9番変ホ長調K.271(1777)
・ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466(カデンツァ:ベートーヴェン)(1785)
リリー・クラウス(ピアノ)
ヴィリー・ボスコフスキー指揮ウィーン・コンツェルトハウス室内管弦楽団(1955録音)

ニ短調K.466の自然体の美しさ。第1楽章アレグロ冒頭のオーケストラ提示の堂々たる歩みは、ベートーヴェン作のカデンツァの激性と同期する。この曲を愛好したベートーヴェンは作品の内に人間存在の真実を見つけたのではないかと思わせるほどその音調は聴く者の魂を刺激し、一層の感動を与えてくれる。特にここでのクラウスの独奏は、モーツァルトの哀しみを捉える。それは、第2楽章ロマンツェの思いのこもった音調にも明らかだ。
それにしてもボスコフスキーの好サポートよ。
あくまで伴奏に徹するも、終楽章ロンド(アレグロ・アッサイ)においてはピアニストを引っ張るかのようにモーツァルトの音楽を楽しみ、謳歌するのである。

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