
「魔の山」第7章。
彼らがどこにいようと、それは一向に構わなかった。ハンス・カストロプがいまここで接しているものは、彼らの持つ最良のもの、つまり彼らの声だったからである。彼はこの純粋化と抽象化をおもしろく感じた。純粋化され抽象化されていても、その声にはやはりまさしく血が通っていて、そばで聞くときのあらがまったくなくなり、余計なものにわずらわされずに人間的に批評を加えることができた。
~トーマス・マン/高橋義孝訳「魔の山」(下巻)(新潮文庫)P631
人間の声こそ生の証なんだといえる。
昔、僕は声の尊さ、美しさが一向にわからなかった。
ディースカウの声を聴いてもシュヴァルツコップのそれを耳にしても、レコードのそれは隔靴掻痒の思いを増幅するばかりだった。
しかし、イアン・ボストリッジの録音を聴いて、そして実演を聴いて、ようやく人の声の美しさに開眼した。
ヒトラーもスターリンもともに『魔の山』と同じような鑑賞会を催すことを好んだ。スターリンは上等のアメリカ製の蓄音機を別荘に持っていて、目撃者の話によれば、「レコードをとりかえて、客をもてなした」。ヒトラーについてもまったく同じで、彼はベルヒテスガーデンの保養所—ベルクホーフ—にレコードの一大コレクションを備え、蓄音機をかけながら、客たちを長広舌につき合わせた。
そうした晩はたいてい、ヴァーグナーの抜粋、シュトラウスとフーゴー・ヴォルフの歌曲、そしてもちろんショスタコーヴィチが《レニングラード》交響曲で嘲笑的に引用したレハールのメロディを中心に進行した。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P352
音楽の力、とりわけ声の力の尊さが垣間見えるエピソードだ。
あらためてフーゴー・ヴォルフを聴いた。
何て新鮮に響くことだろう。本当に素晴らしい。
そして、何と楽しくも美しい歌だろう。ようやく僕の心が、魂がヴォルフに追いついたのだと思う。
ボストリッジの声には張りがある。伸びもある。
何よりこれほど深く詩に感応し、情感込めて紡ぐ歌がこれほど心に響く歌手が他にあろうか。中でもメーリケ歌曲集の素晴らしさ。
世界はバランスの中にあり、調和に向かっているのだと知ったとき、人の心に真の安寧が生まれる。吉凶禍福何があろうと、すべては按配の中にあるのだということを知ろう。
「祈り」の美しさ。