昔、僕はこの演奏を生温いと思っていた。
しかし、歳を重ねて、あらためてじっくり聴いたとき、この演奏の根底に流れる「慈悲」というものに気がつくようになった。特に、シラーの頌歌をもとに作られた合唱付きの終楽章の言葉にならない素晴らしさ。後日、そのことを知るようになるのだが、予算の都合で、終楽章だけ別日に別のオーケストラを使用していたそうだ。そのことに僕は納得した。
娘ロッテへの手紙。
昨日は「モダン・タイムズ」を見た—どんなにチャップリンが、信じられぬほど名人芸を見せ天才的に演じても、全体はむしろ重苦しい印象を与える—しかし彼はまったく比類のない人だ。マックルーアからオーケストラのリハーサル・レコードがきたが、これらを彼は「ベートーヴェン交響曲全集」とともに発売したがっている、わたしがそれを認めることになるかどうか、まだ分からない。—それで9日にサンタ・バーバラの火照る・ビルトモアにいる。
(1959年9月4日付、ビヴァリー・ヒルズからロッテ・ワルター・リント宛)
~ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P356
ブルーノ・ワルターの、諸々細部まで見通す審美眼と慎重さをうかがわせる興味深い手紙だが、彼がこの頃完成させたベートーヴェンの交響曲全集は、聴けば聴くほど味わい深い逸品であり、その深遠さは聴く者の年齢の経過とともに一層深くなって行く。
遅いテンポで堂々と奏される終楽章の大歓喜に文字通り人類が一つになる「慈悲」を思う。それこそブルーノ・ワルターの神髄であり、本性だ。
歓喜は本来音の中にあるもの。ベートーヴェンは、あえて終楽章冒頭で、音による前3つの楽章をあえて否定し、言葉を持つ「歌」を肯定したが、その矛盾、即ちパラドックスにこそベートーヴェンの真意が潜むのではなかろうか。言葉の力強さと同時に、すべてを表現し得ぬ言葉そのものの弱さを思う。
ブルーノ・ワルターの「歓喜の歌」のクライマックスは、合唱部にはない(どうにも繊細さに欠け、大味な気がしてならない)。むしろ管弦楽だけによるパートこそに彼の内面から湧き出る勇気と智慧と、そして慈悲が宿る。