キリスト教理解なくして西洋音楽を表現するのは不可能だという考えがあったのだろうか。いや、朝比奈隆の深層には、人と人との強い絆を求める思いと、一方、それを上手に体現できない葛藤とが常にあったのかもしれない。御大の生み出すブルックナーの音楽には、作曲者の対する堅牢な、篤い信頼、静かな信仰と同時に、一方それを否定するような俗っぽい、人間的な心の動きの発露が垣間見える。
小説では、朝比奈は遠藤周作を好んで読んでいた。「沈黙」「イエスの生涯」「死海のほとり」「キリストの誕生」・・・。
「私は教会に通っていましたが、先生にはうかつにキリスト教のことを言えないくらいよく知っていました。信者ではなかったけれど、信仰についてよく聞かれたし、心のどこかに求める気持ちがあったのではないかと思います。弱さを自分で認めていたのかもしれない。それで、内面の弱さから転んでいく人を主人公としている「沈黙」が一番の愛読書だったのかもしれませんね。いつかは信者になるのかなと思っていたくらいです。先生のお葬式は教会でするのではないかと思っていました」。
家庭の問題について岡が「父親にはいろいろあった」と言うと、朝比奈は「僕も捨てられた身だから」とつぶやいたという。
~中丸美繪「オーケストラ、それは我なり―朝比奈隆4つの試練」(文藝春秋)P235
大阪フィルフルート奏者の岡哲子の話が興味深い。
隠された悲しみ、あるいは、満たされない心の虚無感。そんな負の側面が、御大の音楽にただならぬ力を与えた。
・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1977.9.1Live)
東京文化会館での実況録音。
何と激しいブルックナー。確かに音の乱れは頻出するが、これほど猛り狂う朝比奈のブルックナーは他では聴き得ないものではないか。
最高の瞬間は、第2楽章アダージョ。朝比奈隆の尊い、大自然を求める、逍遥する心が見事に反映された佳品。相変わらず堂々たる外面で、微動しない第1楽章マエストーソはブルックナーの神髄を示す。終楽章の拡がりある鳴動も感動的。
彼が混乱しているのは突然起こった事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蝉の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が―あなたのために―死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蠅の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが・・・耐えられない。
キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)漸く唇を震わせて祈りの言葉を呟こうとしたが、祈りは舌から消えていった。主よ、これ以上、私を放っておかないでくれ。
~遠藤周作「沈黙」(新潮文庫)P187
ブルックナーの音楽にある全休止、すなわち、神の静けさ。
朝比奈の全休止は大自然の持つ静けさという音だ。そして、そこに重なる楽員の呼吸であり、また聴衆の咳払いだ。
なお、2分近くに及ぶ開演前のチューニングと拍手、そして、7分半に及ぶ終演後の歓喜の拍手喝采が収められているところがこの録音の特長。これを聞くだけで、70年代の朝比奈御大の、稀に見るエネルギーと、真正のブルックナーを聴衆がどれほど求めていたかがわかる。