革命の当事者、というより内側から見た心象風景と、後になって革命を歴史的に外から俯瞰した叙事的風景の見事な対比が面白い。
不協和音を駆使した暴力的な、そして前衛的な交響曲第2番「十月革命に捧げる」は、ショスタコーヴィチが体制の先鋒として、未だ社会主義リアリズムが跋扈しない時期に編み出した音楽の、解放されたいわば革命であった。一方、交響曲第12番「1917年」は、体制にある種迎合し(革命歌が引用されている)、革命の正当化を音化したショスタコーヴィチの二枚舌が見事に炸裂した、窮屈な社会主義音楽だった。
交響曲第12番はその前の作品ほどの賞賛を受けることはなかった。共産党入党に伴いこの作曲家がソヴィエト社会のなってしまったことは、彼に対し少なからず幻滅を抱かせることとなった。交響曲第12番は、いわゆる「シェスディデシャトニキ」(直訳すると「1960年代の人々」)つまり、1956年と1967年から1968年にかけてこの国の精神的な動向に強い影響を及ぼした自由主義のインテリの中でのショスタコーヴィチの評判を落とした。しかしこの状況は1年後の交響曲第13番で変わる。
~ グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ)P245
大衆の感性は実に敏感だと思う。
ショスタコーヴィチの冒険が、一見後退したかのように思われる第12番が、しかし一方でカエターニの推進力抜群の解釈によりあらたに生まれ変わったように思われる。
名演奏だ。
第1楽章「革命のペトログラード」のいかにもショスタコーヴィチらしい先鋭的な響きに煽動される。また、第2楽章「ラズリーフ」は、レーニンが革命の構想を練った場所であるラズリーフ湖がその由来だが、思念籠る意味深いアダージョの音楽が見事に披露される。そして、革命の火蓋を切った防護巡洋艦アヴローラをモチーフにした、不気味な音調と強烈なリズムをもった第3楽章、そして革命後の夜明けを信じた(というより体制に向けて肯定的姿勢を見せた)終楽章「人類の夜明け」こそ、この演奏の白眉だと僕は思う。
(相変わらずのコーダの展開には思わず恥ずかしさを覚えるくらいいかにもショスタコーヴィチ)
一方の第2番「十月革命に捧げる」がまた一層素晴らしい。
生年ドミトリーの気概の詰まった文字通り革命的精神の音楽には間違いなく未来への希望が描かれていた。そして、カエターニはその未来音楽を実に美しく、また意味深く奏でている(ライヴならではの生命力!!)。