温故知新。
革新の背景には間違いなく、過去への敬いがあるように思う。
過去をただ否定するのではなく、そこから学んだものをさらに昇華しようとするのが真の新しさだろう。
まだ大勢ほかの人たちもいる・・・安心なさい、私には音楽史に貢献しようというつもりはない。ただ、いつも同じものばかり演奏するのは、たぶん間違いであって、たいへん正直な人たちに音楽は誕生して間もないと信じこませるおそれがあるが、実は灰をかきまわさなければならないほどの「過去」をもっている、ということを、かこつけて言いたかったまでだ。私たちの「現在」が光輝の一部分をつねに負う、あの消すことのできない焔を、灰がささえているからである。
「忘却」
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P198
過去の天才たちが忘却の彼方にあった20世紀初頭にドビュッシーは嘆いた。そして、過去のイディオムから独自の方法をつかみ世に送り出した。「現在」はまさに「過去」の積み重ねの中にあり、「現在」の積み重ねこそが「未来」なのだということを忘れてはならない。
ドビュッシーの音楽には常に未来があった、否、常に未来がある。
そのことは彼が没して1世紀を経ても変わらない。未だにドビュッシーは、そしてその影響力は僕たちの中に生きている。
長い間理解できなかったドビュッシーの音楽がついに僕のものになった。
そのきっかけをくれた一人がシャルル・デュトワその人だった。
西洋的視点、つまり対立を軸とするソナタ形式を否定するドビュッシーにおいて、「海」は第1楽章が「海上の夜明けから真昼まで」を描き、第3楽章が「風と海との対話」を描いている点からもわかるように、厳密には身に着いた弁証法的思考は結局拭い去れなかったのだろうと思う。しかし、東洋の、おそらく日本の影響下にあるこの作品は、西洋的な思考を超えんとする意思が隅々にまで働いているように僕には思える。
いわゆるドイツ的な規範の中にある交響詩という枠にはまるものではなく、あくまでドビュッシー的革新、交響的素描であり、言葉に表し難い浮遊感(?)がミソなのである。
デュトワの棒は相変わらず上手い。
この「海」を聴いて僕はドビュッシーの開眼したのだ。それもリリース後まもなく手に入れておきながら何年も経過してから目から鱗が落ちたのである。
同様に「牧神の午後への前奏曲」も出色。
長い独奏のうちに 夢見るのは、美しい景色と
我らの信じやすい歌と、二つながら 偽りのうちに
溶け合わせては、風景を 楽しませること。
そして 愛が転調する、それと等しく 高い虚空に
消えてゆくのは、背中と そして清らかな 腹と、
わたしの閉じた眼差しの 追いかけていた その月並みな夢の、
音高く 虚しく 単調な 一筋の糸。
「半獣神の午後」
~渡辺守章訳「マラルメ詩集」(岩波文庫)P86
難解だと言われるステファヌ・マラルメの詩だが、耳で読めばその神髄が見えてくるように思う。同様に、「牧神の午後への前奏曲」は目で聴くが良い。