R.シュトラウス指揮ウィーン・フィル 家庭交響曲(1944.2.17Live)ほかを聴いて思ふ

リヒャルト・シュトラウスの指揮は、現代にも十分通用する中庸さをどんなときも保つ。
総じて古びないその方法は、彼の音楽と歴史に対する審美眼から成っているのだろう。彼は未来に明るかったのだと僕は思う。
例えば、彼は「マイスタージンガー」についてかく語る。

ワーグナーの極端な「長大さ」に慣れた後で「喜劇」だと言われたために、オペレッタ風のぞんざいな演奏がこの立派な記念碑的作品を台無しにし、この作品の様式にきわめてひどい暴力が加えられた。
シュトラウス/鶴間圭訳「古典的傑作の指揮の経験」(抄)
日本リヒャルト・シュトラウス協会編「リヒャルト・シュトラウスの『実像』」(音楽之友社)P102

実際、テープの保存状態の劣悪さゆえか、あるいは経年劣化か、音揺れが激しいのだが、戦時中のウィーン・フィルとの前奏曲の実況録音は、実に明快かつ知的なアポロン的様相を示す傑作だ。

左手は指揮に関しては何もすることがない。それはベストのポケットに入れておくのが最適で、せいぜい音量を抑えるために僅かな指示を出したり、重要でない合図をしたりするくらいだが、その程度ならほとんど気づかれないほどの目配せで十分なのである。
腕で指揮するのではなく、耳で指揮するのが適切である。そうすれば、あとのことは自動的に生じるのである。

~同上書P96

実に奥深い言葉。重要なのはやはり「耳」だ。

・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕前奏曲(1944Live)
・リヒャルト・シュトラウス:家庭交響曲作品53(1944.2.17Live)
・リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28(1944.6.15Live)
リヒャルト・シュトラウス指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

自作「家庭交響曲」が発する強力なパワーとエネルギーは、戦時という危機的状況ゆえの精神の発露なのかもしれないが、こんなにも熱狂的な音楽を奏でるシュトラウスの指揮は本物であると思う。音は空間を超えて拡がり、またうねる(特に夫婦の情愛を歌う第3部アダージョの濃密な美しさ)。

私は、現代の出来の悪い交響詩なんぞよりベートーヴェンのエロイカの方が好きだという人たちを反動呼ばわりするつもりはさらさらない。現代のつまらぬオペラをひとつ見るより《魔弾の射手》を12回続けて見たいという人たちとて同様である。そういう気持ちからすれば、私自身だって反動だろう。私が言う反動家、我慢のならぬ反動家とは、リヒャルト・ワーグナー先生がゲルマン神話からオペラの題材をとっておられるから、今後は聖書から題材をとるのは禁止すべきだなどと言い出す手合いである(私はむろん我田引水的に発言をしているのである)。あるいはまたベートーヴェン先生がナチュラル・トランペットにやむなく主音と属音だけを吹かせたというただそれだけの理由で、バルヴ・トランペットは旋律楽器と見なすのが正しいと教えたりする手合いである。要するに大きな規則表を楯にとって、なにか新しいことをやろうという人間、やれる人間を見つけるやいなや、禁止だの駄目だの言い出して人の努力をおしとどめようとする連中すべてを反動と呼ぶのである。
シュトラウス/松本道介訳「音楽に進歩派は存在するか」
~同上書P30

凝り固まるのでなく、常に革新だとシュトラウスは言う。
しかし、そういうシュトラウスも自作に関して言うとかなり保守的な演奏を示す。ただし、内なるパッションは筆舌に尽くし難い圧力に満たされる。コーダの解放の幸福感は他では味わえぬもの。

「ティル・オイレンシュピーゲル」もまさに自家薬籠中の颯爽たる演奏だ。
ところで、シュトラウスはこの頃の、ウィーン・フィルとの自作の録音について(2拍子か4拍子で指揮すると告げるだけで)リハーサルなしのぶっつけ本番ですべてを録音したらしい。となると、これはもうウィーン・フィルというオーケストラの技量であり、音楽家リヒャルト・シュトラウスとの信頼の賜物であることは間違いない。
70年以上も前のそんな記録が耳にできることの幸せ。いずれも壮絶な、鬼気迫る名演奏。

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