クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立管 ブルックナー 交響曲第9番(フェルディナント・レーヴェ1903年改訂版)(1958.2.10Live)

アントン・ブルックナーの交響曲にまつわる諸問題、中でも改訂稿のこと。

後に改めて触れるように『第8番』と『第9番』も、シャルクやレーヴェが著しくヴァーグナー風に歪曲した版により出版された。シャルク版やレーヴェ版は今日ほとんど顧みられることは無いが、これらの版については肯定的な見方もある。弟子たちのそういった努力がなければ、ブルックナーの特異な交響曲が彼の生前に、成功を得ることは困難だったというのである。
だが弟子たちの改作がその後のブルックナーの受容に、不自然な屈折を強い続けたことも事実である。

田代櫂「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」(春秋社)P260

賛否両論の結論はどこまでいっても平行線だ。かつては懐疑的だった僕も今では改訂版肯定派。6年前に聴いた、ロジェストヴェンスキー指揮読響の第5番(シャルク改訂版)の威力は目を瞠るものだった。あるいは、2018年に聴いたカンブルラン指揮読響の第4番「ロマンティック」(1888年稿/コーストヴェット校訂版)も素晴らしかった。弟子の筆が入ろうが、悪意あっての改訂作業でない以上、それはそれでブルックナーの新作と認識することも可能だ。

『第9番』の初版はブルックナーの死から8年後の1903年、レーヴェによって出版された。だがこれは『第5番』の場合と同じく、見る影もない改竄版であり、若干のカットを含むほか、オーケストレーション、強弱法、和声の変更という暴虐が、ほぼ全篇にわたってほどこされている。『第9番』レーヴェ版は、出版された年の2月11日、レーヴェ自身の指揮で初演され、作曲者の意志として休憩後に『テ・デウム』が演奏された。
~同上書P304

1932年に原典版が初演されるまで長きにわたって唯一の版となっていたレーヴェ版だが、個人的には実に興味深い、まったく新たな切口による、例えば漸強漸弱などいかにもブルックナーらしくない浪漫的音響にかえって僕はシンパシーを覚えるほど。誰の評価を気にするでもなく、下敷きになっているのはブルックナー自身が生み出した楽想であり、楽曲であるのだから、「レーヴェ改訂版」という付記の下もっと頻繁に演奏されても良いのではないかと思えるほど、生命力溢れる音楽になっている。

・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(1903年フェルディナント・レーヴェ版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立管弦楽団(1958.2.10Live)

ブルックナーの音楽とは似ても似つかないものに変容しているのは特に第3楽章アダージョだが、ここでのクナッパーツブッシュは遊び心に満ち、敬虔さよりもどちらかというとブルックナーの人間臭さを見事に音化していて(レーヴェ改訂版がそういう作りになっていることもあろうが)、神に捧げた交響曲がより身近なものになっていて面白い。

『第9番』の被献呈者は、天におわす神だった。主治医シュレッターの助手リヒャルト・ヘラーによれば、ブルックナーはある時こう言った。
自分はすでに地上に二人の王に交響曲を捧げた。『第7番』をルートヴィヒ2世に、『第8番』を我らが皇帝に、自分は最後の作品を神に、王の中の王に捧げようと思う。願わくば主が完成のための時間を与えられ、深い憐れみとともにこの献呈を受け入れられますよう。自分は第2楽章の「アレルヤ」(トリオの『テ・デウム』的音型?)を、終楽章でもう一度使おうと思う。感謝しても感謝しても足りない、主への讃歌でこの交響曲が終わるように、と。

~同上書P301

ちなみに、クナッパーツブッシュが生涯改訂稿に固執したのも彼の天邪鬼的性質によるものではなかろうか。ブルックナーの上記の言葉が真実だとするなら、第9番レーヴェ改訂版の俗物的色彩は作曲者の意に反しているものだと解釈することも可能で、巨匠はあえてその版からブルックナーの希求する神性を表現してやろうと目論んだようにも思えてならない(残念ながら結果はその域には達していない。しかし、もし実演に触れていたなら印象は大きく変わったのかも)。

過去記事(2018年1月11日)
過去記事(2020年1月27日)

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