ランチタイム・コンサートVol.125 大瀧拓哉 希望に向かって

久しぶりにトッパンホールまで足を延ばした。
舞台に現われたいかにも好青年が現代音楽を無心に打ち鳴らす光景に僕は感動した。
そして、音楽は常に進化の中にあるが、一見退行のようにみえて、そこには必ず何かしらの進歩や発展があるものだと痛感した。

ピアニストは語る。

ランチタイムにしては幾分思いテーマな気もしますが・・・偉大な芸術家たちがその時代の空気を敏感に感じ取り、嘆き、後世に残したことを伝えることが演奏家として大切な役割の一つではないかと思いこのようなプログラムを組みました。

果たして世界は平和か?
芸術が世界を救えるのか?

現在の諸相。様々な憶測が飛び交う中、ピアニストはそれを信じているのだということが演奏からわかった。おそらく場を共にした聴衆の幾人かも同じような思いを持ったかもしれない。

リサイタルのテーマは「希望に向かって」。
素晴らしい内容だった。音楽の普遍性をあらためて感じさせてもらえた時間だった。
すべてはベートーヴェンから始まり、そしてベートーヴェンに還るのだと思う。
さすがに楽聖と称されるだけある。
ソナタ第30番ホ長調作品109は完全な作品だと思われた。
第1楽章ヴィヴァーチェ,マ・ノン・トロッポは冒頭から脱力の、夢見る音が鳴り響いていた。と思いきやアタッカで続く第2楽章プレスティッシモの爆撃のような地響きを伴なう強音に吃驚した。白眉は終楽章の変奏、アンダンテ・モルト・カンタービレ・エト・エスプレッシーヴォの(前楽章から一瞬の間をとった)天国的調べと地獄的調べの交差ラッシュ。すべてが対比の中で輝いていた。

リサイタルは間断なく進む。
アルバン・ベルクを単体でとらえたとき、一種難解さを覚える場合があるだろうが、さすがにベートーヴェンの作品109と並べたとき、あらためてベートーヴェンが未来を行き過ぎていたのかどうなのか、楽聖のイディオムが90年後のベルクにまで通じていたことに驚嘆した。何より両者に相通ずる官能の調べ(もっともそれは語弊のある言い方だが)。単一楽章の中にベルクは自身の愛を詰め込んだのかどうなのか、あまりに人間的な、そして有機的な、血の通った音楽に僕は感激した。ベルクのソナタを聴いてこういう思いを持ったのは初めてではなかろうか。とても見通しの良い、優れた演奏だった。

そして、ジェフスキの「ウィンズボロ綿工場のブルース」は、ミニマル・ミュージックをひな形とし、文字通り工場の騒音を美しく音化した、聴衆の度肝を抜く作品だった。そこにはジャズの要素が含まれ、もちろんベートーヴェンも顔を出す。古今東西、あらゆる時代の、あまりに人間的な生活に密着した、ある種ダンス音楽のようにも僕には聞こえた(オプティミズム)。なるほど、冒頭にベートーヴェンをプログラミングしたことが鍵だ。
作品109以降、作品111の第2楽章アリエッタでベートーヴェンは時空を超えた。そのアリエッタにも通じる、否、まったく正反対の方法でジェフスキはベートーヴェンに追いついたのである。

ところで、アンコールの、アルフレッド・コルトー編曲による通称「バッハのアリオーソ」の、いかにもコルトー風の、フランス風の、ソフィスティケートされた音楽の中に感じられたドイツ的堅牢なニュアンスは、現代音楽と古典音楽を見事に中和した大瀧拓哉の真骨頂のようだ。あっという間の1時間。感謝。


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