クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立歌劇場 ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」(1950.7.23Live)を聴いて思ふ

ワーグナーの突然の訃報に接し、ヴェルディは心から嘆いた。
シェーンベルクの初期の音楽、例えば「グレの歌」も、明らかにワーグナーの音楽的影響があることが手に取るようにわかる。
同時代はもちろんのこと、後世の人々にまでワーグナーが与えた影響は実に計り知れない。ワーグナーはあらゆる意味で革命家だったのである。

古代劇場の姿を歪めて模倣した近代ヨーロッパの新しい劇場において、熱のこもった語り口を重視する傾向が一貫して優位を保ち続け、ドイツの偉大な作家たちによって「教育的にして=詩情あふれる」パトスにまで高められたという事実には、驚きとともに考えさせられるところが大きい。これに対して、観客の目をあざむく舞台装置をきれいさっぱり取り払ったシェイクスピアの簡素な民衆劇場では、ほとんど衣装に凝ることもない俳優のきわめてリアルな動きにもっぱら関心が集中した。後年、杓子定規になったイギリスの劇場では、いかなる場合も観客に背を向けてはならないという鉄の掟を俳優に科すかわりに、舞台奥へ退場する際になんとか後ずさりを決める、そのやり方は各人にまかせた。一方、シェイクスピアの俳優たちは観客の目の前で、普段の生活となんら変わることなく四方八方へ自由に動いてみせた。シェイクスピアの登場人物たちが、目くらましの小細工に頼ることなく、ひとつひとつの動きに神経を使いながら、息をのむほどに真実味をおびた、それでいて聞いたこともないほど類まれな姿をあらわし、つい目と鼻の先の観客に本物と信じ込ませるには、自然な演技にどれほどものを言わせねばならなかったか想像に余りある。こうした迫真の演技に対する観客の信頼を保つだけでも、あらんかぎりの演劇的パトスを注ぎ込まねばならない。さもないと、悲劇的な高揚に達した瞬間、それこそ滑稽きわまりない印象をさらけ出してしまうからだ。このような状況のもとで真にわれわれの心の琴線に触れるのは、正直なところ、尋常の域をはるかに超えた演技をおいてほかに考えられない。
三光長治・池上純一訳「俳優と歌手について」(1872)
ワーグナー/三光長治監訳/池上純一・松原良輔・山崎太郎訳「ベートーヴェン」(法政大学出版局)P420

何とシェイクスピアの簡素な民衆劇場とは!ヴィーラント・ワーグナーのいわゆる新バイロイト様式の根拠はリヒャルトのこの論にあったのだろうか。

クナッパーツブッシュは、1952年のバイロイト音楽祭でヴィーラントのその演出をめぐりぶつかり、翌年去ることになった。彼はあくまでワーグナーのト書きに則った具体的な舞台を支持したのである。確かに彼の生み出すワーグナー音楽そのものが極めて重厚であり、うねりを伴う「具体的」なものだ。それゆえに、時に爆発的な超絶名演奏を繰り出しながら、時に疑問を感じざるを得ない、力の入り過ぎた(?)駄演に陥ることもある。
1950年夏のミュンヘン音楽祭での「トリスタンとイゾルデ」は、例えば第2幕などは極めて動きのある、熱い音楽が表出されるのに、第3幕では歌手の歌唱の方法を含め、必要以上に古臭さを感じてしまう。たぶん、その場にいたなら印象はもっと違っていたのかもしれないが、少なくとも録音で聴く限りのこの「トリスタン」には隔靴掻痒の思いが募り、大手を振って推薦することができない僕がいる。

・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
ギュンター・トレプトウ(トリスタン、テノール)
フェルナンド・フランツ(マルケ王、バス・バリトン)
ヘレナ・ブラウン(イゾルデ、ソプラノ)
パウル・シェフラー(クルヴェナール、バリトン)
アルブレヒト・ペーター(メロート、バリトン)
マルガレーテ・クローゼ(ブランゲーネ、メゾ・ソプラノ)
フィリッツ・リヒャルト・ベンダー(舵手、バリトン)
パウル・クーエン(若い水夫、テノール)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮バイエルン国立歌劇場管弦楽団&合唱団(1950.7.23Live)

あくまで録音、音だけでの判断なのでまったくもって独断と偏見。
しかし、同じ実況録音とはいえ、1966年のバイロイト音楽祭、まさにヴィーラント様式によるカール・ベームの「トリスタンとイゾルデ」が異様な緊張感と劇的な感動を喚起するものであるのに対し、どこか緩みの感じられる、心に迫らないこの演奏は、何も録音の良し悪しだけでなく、そもそもの歌手、すなわち俳優の「尋常な域を超えた演技」がなかったからではないのかなどと勘繰ってしまうのである。もちろん単なる邪推かも知れないが。

とはいえ、この実況録音で、僕が最も感銘を受けたのは第2幕。
尻上がりに調子の上がる指揮者、管弦楽、そして歌手陣が、一丸となって熱を帯びた、壮絶なる舞台を繰り広げる様が実にリアルに収められており、特に第3場終結、トリスタンがイゾルデを暗い夜の国(死の国、あるいは根の国)に誘う、内なる力強さを秘めたシーンの暗い神秘!

イゾルデ 
前にあなたが
見も知らぬ国に嫁ぐようにすすめに来られたとき、
不安なあなたに
実を尽くして
イゾルデはついて参りました。
けれども、今度はご自分の本領に案内して
お国を見せてやろうとおっしゃる。
どうしてわたしが世界を包むほどに広大な
その国を避けることがありましょう。
トリスタンの古巣のあるところに
イゾルデも参ります。
操を尽くして
ついて行けるように、
その道をイゾルデに教えてください!

日本ワーグナー協会監修/三光長治・高辻知義・三宅幸夫編訳「トリスタンとイゾルデ」(白水社)P99-101

ここで語られる「死の国」とは、時間も空間も存在しない空のことだが、なるほど、クナッパーツブッシュの演奏、解釈は俗的な波動に満ちていて、エネルギッシュであるには違いなのだが、もっと抜けた、そして透けた官能、侘び寂の境地を僕は描いてほしいのだ。全体的に感銘が薄いのはそのことによる。要は好みの問題なのだが、終幕「愛の死」の場面も、ブラウンの歌唱がどうしても肉感的であり過ぎ、俗っぽく感じられ、残念ながらイゾルデというよりブラウンであり、僕には厳しい(おそらく実際その場に居合わせていたら卒倒していたことだろうに)。

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