フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル シューベルト 交響曲第9番D944「ザ・グレート」(1951.11&12録音)

もうお誕生日が過ぎてしまいましたが、お手紙も差し上げませんでした! どうにもしょうがなかったのです。ちょうどお誕生日の前の日をねらってでもいたように、病気になり、寝てなければならなかったのです。でもたいしたことにはならず、今はもう元気になりました。それだけ良いお手紙が書けるというものです。ことに、ちょうだいした100マルクには、心からお礼を申さなくてはなりません。あの贈物がとても嬉しいのです。今がいいコンサートがたくさんあって、2つか3つかち合うぐらいは稀でないのですから、そんなときは、どのコンサートに行ったらいいものか、しばしば考え込んでしまいます。もうたくさん聴きました。ことにボヘミア四重奏団の演奏は見事なものでした。2度のコンサートで、ブラームス、ハイドン、ベートーヴェン、シューベルト、それに2、3の新作が演奏されました。でも、いちばんぼくの気に入ったのは、やはりシューベルトでした。
(1900年1月27日付、祖母クリスティアーネ・フルトヴェングラーに)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P25

14歳のヴィルヘルム少年の手紙は、とても温かく、しかも冷静だ。
誕生日のプレゼントを心から喜ぶ少年らしさと、音楽を心から堪能し、そして美を見極める(?)姿勢に、大指揮者となった後の様子がすでに刻印されているようにも思う。少年の頃、フルトヴェングラーの魂を捉えたのはシューベルトの音楽だった。

こちらでも、けっこう楽しい日々を過ごしています。このあいだは(シューベルトの)あのすばらしい変ロ長調のピアノ・トリオを聴き、今日はハ長調の交響曲を聴く番です。シューベルトの書いたもっとも偉大な作品はあれだと思います。ことに巨大な終楽章は見事です。だいたいにおいて、シューベルトをただ歌曲の作者ないしは美しい旋律の創始者としてあがめたてまつるのは、愚かなことです。このような交響曲を書いたのは、わずかにベートーヴェンあるのみです。
(1900年、祖母クリスティアーネ・フルトヴェングラーに)
~同上書P26-27

フルトヴェングラーの幾種か残された「ザ・グレート」はいずれも名演奏の誉れ高いものだ。

要するに、ワーグナーについてある判断を下そうと思ったら、彼を知らなくてはならない。ぼくには、シューベルトと並んで、ベートーヴェン以降の最大の音楽家であるように思われる。
(1903年7月31日付、ペルテル・フォン・ヒルデブラントに)
~同上書P40

理論的な根拠の不足や若気の至りといった内容のものも多いが、それでもヴィルヘルム少年の感性は繊細であり、また的を射ていたのではないか、残された若き日の手紙を読み、僕は思った。

少年フルトヴェングラーが絶賛したシューベルトのハ長調交響曲、中でもその終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェは、フルトヴェングラーの残した録音において確かに彼ならではの活気と推進力に満ち、(時に冗長に過ぎるこの作品を)聴いていて飽きることがない。

・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレート」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.11.27-28&12.2-4録音)

天下の名盤。ベルリンはイエス・キリスト教会での入念なセッション録音。
あらためて具に確認しながら聴いてみて、シューベルトの何が少年フルトヴェングラーの心を惹きつけたのか考えた。それは、執拗で原初的なリズム、それを見事な美しい旋律で覆う技法、そこにあったのだろうと最晩年の論文「混沌と形象」を読んで思った。

アフリカの原始林、たとえばコンゴ地方で一夜を過ごした人は、いわば解放された自然が人間の心情にあたえる不気味な印象を語ることができる。そこでは、あたかも冥府の水の堰がことごとく開かれ、生気をはらみ、宇宙の恐ろしい根源力をなまなましく伝える無数の声が怒号するかのような感じである。ここで現代人が肌身に感じるものは混沌であり、その体験は彼にとって—冷静に表現するならば—ある異常な「感情」を意味する。
もしだれかが、おなじくアフリカの原始林で、はてしなく鳴りひびくニグロの太鼓の音を聞くとすれば、その人は前の場合とは異なった、しかし本質的には類似した印象を受けるにちがいない。あらゆる方角より、遠くまた近くから執拗なリズムで絶え間なしに鳴りひびく太鼓の音は、その一夜をヨーロッパ人にとってきわめて感動的な体験の夜とすることであろう。ここにもまた—音の粗暴な力によってではなく、音のリズミカルな無情さと連続性とによって—他と比べようもない、音響学的にまったく原始的な効果が現われている。

「混沌と形象」(1954年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P176-177

おそらくそれは、ストラヴィンスキーやバルトークといった当時の「現代音楽」を意識して書かれたものだろうが、その論はより普遍的だと思う。人の鼓動のような、魂を刺激する根源的なリズムこそ、そしてそのリズムの明らかな表出こそが命に通じるのだということをフルトヴェングラーはわかっていた。

過去記事(2008年7月24日)
過去記事(2019年12月30日)


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