フラメンコギターとクラシックギターづくりはどう違うのだろうか。
「男と女ほど違うよ。フラメンコギターは一言で言えば、感情の起伏が激しいテンペラメンタルtemperamentalな(感情的な)性格。クラシック・ギターはテクニコtecnico技術的だ」
~中山瞭文・写真「スペイン7つの小さな旅」(東京書籍)P142
クラシック・ギターの澄んだ、落ち着いた音の表情は、そもそもの楽器本来のもつ性格に起因するようだ。確かに「技術的」だというのは、その通り。しかし、ナルシソ・イエペスのギターの音は違う。作品の性質により音調は見事に変わる。時にテンペラメンタル、時に理知的。「技術的」であるがゆえの幅を、とことん拡大する魔法の如し。
しっとりと柔らかい音、生き生きと生命力溢れる音。
イエペスの弾く(スペイン情緒に満ちる)フランシスコ・タルレガ作品の抒情。熱い、そして懐かしい。
タルレガの作品には、聖俗相交錯する心が宿る。
当初、「祈り(Invocación)」の副題が添えられていたという(アルハンブラ宮殿の美しさにインスパイアされた)「アルハンブラの想い出」は、トレモロの流れが実い印象的だが、イエペスの感情移入の深さが伝わり、感動的。
また、 敬愛するロベルト・シューマン晩年の作品「20のアルバムの一葉」作品124の第5曲から主題に基づく「オレムス(われら祈らん)」の言葉にし難い悲しみ。あるいは、9分強に及ぶ「演奏会用大ホタ」は天晴れ。
イエペスはインタビューでかく語る。
エネスコは、私が訪ねた日の最初に、つぎのようなドビュッシーの言葉を聞かせてくれました—「音楽というものは音符のなかにはない、音符と音符のあいだにこそあるのだ」と・・・。これが私のいちばん大切にしているエネスコの訓えです。たんに「音符」だけからできた音楽には何の価値もない。「音符のあいだにあるもの」、譜面には書いてないものを十分に含んでこそ、音楽は価値がある。こう言ったドビュッシーは真の天才だった。
~濱田滋郎の本「ギターとスペイン音楽への道」(現代ギター社)P22
記号をいかに読みとり、自分の音にするか、そしてそれによっていかに聴衆に感動を与えるかが演奏者の使命だというのであろう。
ギーゼキングはよく言いました。ギタリストに限らずピアニストでもヴァイオリニストでも、その90%までは、自分自身がひいているところのものを聴いていないと。「音楽は聴かせるためにあるものだ。それならまず、自分がしっかり聴かねばならぬ」とね。
~同上書P23
名言だ。彼らの訓えをナルシソ・イエペスは忠実に守る。
[…] 楽というものは音符のなかにはない、音符と音符のあいだにこそあるのだ」とクロード・ドビュッシーは言ったという。音の行間にこそ真の音楽が存在するのだと彼は言うのである。 古ぼ […]