Santana “Caravanserai” (1972)

旅は人を豊かにするようだ。
視覚や聴覚はもちろんのこと、嗅覚は人の記憶を大いに刺激する。
三島由紀夫の「インド通信」(1967)冒頭にはこうある。

インドではすべてがあからさまだ。すべてが呈示され、すべてが人に、それに「直面する」ことを強いる。生も死も、そしてあの有名な貧困も。
佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P249

半世紀以上も前のことだ。ただし、彼の地は昔も今も根本的には変わらないだろう。
辻邦生も「インド変容」(1975)の中で次のように書いている。

仏陀が苦行をすて、尼連禅河で水浴ののち、乳糜をとって樹下で正覚を得たという物語は、この豊饒な光と、巨大な、風もないのにさやさや鳴っている樹木と、濃艶な花と、豊満な女体を背景にしなければ、わからないのではないか、と私は思った。無明を絶った仏陀の前に現れたのは、神々の作品としての青空であり、花々であり、風であり、水の流れであったに違いない—私はサンチーの温雅なまるい仏塔を仰ぎ、マトゥラーの赤い砂石の仏陀の立像を見、サルナートの端正崇高な結跏跌坐したグプタ仏を眺めている折、言い難い甘美な歓びの感情をともなって、そう感じたのであった。
「辻邦生全集17」(新潮社)P328

聖なるものは理屈でなく、体感だと辻はいうのだろう。彼はまた「大いなる聖樹の下」(1975)の中でこうも書く。

たしかに文明へのこうした意志を否認することは正しくなく、インドに物質的なレヴェルでの援助はなお必要ではあるけれども、この大地に息づく聖なるものの感覚を、それによって崩壊させてはなるまい、と私は旅のあいだ思いつづけた。
~同上書P46

文明の発展の中で失われていったものは大きい。
西洋世界が東洋世界に感化された。物質世界のみを重宝する時代からプラスα精神世界を重視する時代へと世界は移り変わる。お金から徳へ。徳積みがいかに大切な行為であるか。

東洋思想に傾倒し、シュリ・チンモイ導師に帰依するも、カルロス・サンタナは早い段階で離れたという。大事なものは人や教え(言葉)にはない。大自然の運行、働きそのもの、すなわち真理にあることを当時彼らはわからなかった。所詮、人は人なのである。
チンモイへの帰依とは前後するが、だからこそサンタナは当初から言葉ではなく音楽で真理そのものを表現しようとしたのだろう。

“Eternal Caravan of Reincarnation”にはじまり、”Every Step of the Way”で幕を下ろす、サンタナ4作目の永遠。ラテン・ロックの明朗なリズムの饗宴の中に見る、聖性というよりむしろ俗性。何と肉欲的な大自然の賛美だろう。

・Santana:Caravanserai (1972)

Personnel
Carlos Santana (lead guitar, guitar, vocals, percussion)
Neal Schon (guitar)
Gregg Rolie (organ, electric piano, vocals, piano)
Douglas Rauch (bass, guitar)
Douglas Rodrigues (guitar)
Wendy Haas (piano)
Tom Rutley (acoustic bass)
Michael Shrieve (drums, percussion, vocals)
José “Chepito” Areas (percussion, congas, timbales, bongos)
James Mingo Lewis (percussion, congas, bongos, vocals, acoustic piano)
Armando Peraza (percussion, bongos)
Hadley Caliman (saxophone intro, flute)
Rico Reyes (vocals)
Lenny White (castanets)
Tom Coster (electric piano)
Tom Harrell (orchestra arrangement)

大自然の賛美は、生の賛美へと形を変える。
50分超のアルバム全編に伝わる歓喜は、生きることの歓喜と同期する。すべてはプロセスにある。特に音楽の場合、その過程が大事なのだということをサンタナは教えてくれる。

ワン・タッチという言葉が象徴する〈生〉の味わいの無視は、ぼくらの生活をいたるところで空疎化し、砂漠としている。〈生〉のプロセスをゆっくり味わい楽しもうとするかわりに、一挙に結果へと〈跳び越し〉をやるからである。そこに、よしんば仕事の目的、計画、多忙、その他の現実的理由がなく、ひたすら〈よりよい生〉というごとき大義名分があっても、すでに〈生〉を跳び越しうると考える考え方のなかに、〈生の味わい〉から疎外された心の荒廃が巣喰っている。
「神々の青い海」より(1976)
~同上書P339

1970年代は熱い。ラテン・ロックの、否、歌のない、言葉を持たないバンドの、陽気な中にある生と死の讃歌。自然は大らかだ。

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