さあ、御母よ、愛の泉よ、
私にもあなたの強い悲しみを感じさせ、
あなたと共に悲しませてください。
ロッシーニの「悲しみの聖母」に「悲しみ」は見えない。
ラテン語の聖歌であるその詩は実に壮絶で悲哀に満ちるのだけれど。
なるほど彼は、「悲しみ」を超えようと単にとり繕っていただけなのかもしれない。
不思議な明朗さが悲哀をひた隠しにする。
ところで、室生犀星の「忘春詩集」には、「母と子」という詩がある。
私生児で生を享けた犀星のほとんど嘆きの歌だ。
母よ わたしの母、
わたしはどうしてあなたのところへ
いつころ人知れずにやって来たのでせう
わたしにはいくら考へてもわかりません
あなたが本統の母さまであつたら
わたしがどうしてこの世に生まれてきたかを
よく分るやうに教へてくれなければなりません
わたしは毎日心であなたのからだを見ました
けれどもわたしが何処から出てきたのかわかりません。
わたしは毎日あなたを見詰めてゐるのです
ふしぎな神さまのやうに
あなたの言葉ひとつひとつを信じたいのです
母さまよ わたしに聞かしてください
わたしがどうして生まれてきたかを―
~室生犀星「抒情小曲集/愛の詩集」(講談社文芸文庫)P279-280
美しくも赤裸々な詩。
人は誰しも自身の存在の発端を知りたいと願うもの。
おそらく幼少から抱えていた「不信」をようやく言葉にすることで手放した彼は、それによって自信を再生したのかもしれない。
愛の形は様々だ。
・ロッシーニ:スターバト・マーテル
リューバ・オルゴナソーヴァ(ソプラノ)
チェチーリア・バルトリ(ソプラノ)
ラウール・ヒメネス(テノール)
ロベルト・スカンティウッツィ(バス)
ウィーン国立歌劇場合唱団
チョン・ミョンフン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1995.6録音)
第5曲合唱とレチタティーヴォ「愛の泉である聖母よ」の深み。
第7曲カヴァティーナ「キリストの死に思いをめぐらしめたまえ」におけるバルトリの華麗な歌に感動。また、第8曲アリアと合唱「さばきの日にわれを守りたまえ」冒頭、ロッシーニらしい金管の劇的な咆哮に覚醒し、オルゴナソーヴァのソプラノ独唱に涙する。
そして、第9曲四重唱「肉体は死んでも朽ちはてるとも」の、地から湧き立つ音楽のあまりの静けさと神々しさ(ここでの無伴奏合唱と4人独唱者によるアンサンブルの妙)と終曲「アーメン、とこしえにわたり」の明朗さの劇的な対比!
チョン・ミョンフンが一番脂の乗っていた時期の音楽は何より前のめり。素晴らしい。
ちなみに、上記、犀星の言葉に母は次のように答える。
おまへが大きくなるほど
母さまはぼろぼろになるのです
それほど瘠せおとろへてしまふのです
母さまはいまは誰もふりかへつて見てくれません。
母さまの心臓もからだも
そしてしまひにはお前を抱き上げるちからもなくなるでせう。
子守唄もうたへなくなるでせう
けれども子供よ かまはず大きくおなり
母さまのおちちのなくなるまで
みんなみんな舐つておしまひ。
~同上書P280-281
詩人はまさに愛の泉たる母を求めていたのだろう。
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