リヒャルト・ワーグナーの魔術を、あえてピアノで聴く愚行。
「愚行」とは言い過ぎの感もあるが、あの仰々しいムジークドラマを、歌手もいなければ管弦楽も不要という体で表現しようというのだから本来なら「穴」があって当然であり、無理があって然るべきなのである。
しかしながら、劇場でなく、あるいはコンサートホールでもない、個人の自宅で聴くなら、逆に音楽の細かい造形までも見通すことができ、ピアノ独奏、あるいはピアノ・デュオというのはとっておきの方法だ。
強いて言うなら、大管弦楽の喧騒が、静謐なる祈りの音楽に化すところが大いなるアドヴァンテージ。フンパーディンクによる「パルジファル」前奏曲はもちろんのこと、タウジヒ編曲の「マイスタージンガー」前奏曲までが、何と可憐な音調を示すことだろう。
なるほど、言葉のないワーグナーの音楽には信仰がある。
自然は欲するが、見る眼を持たない。人間がいつの日か人工の火と光を案出することをあらかじめ知っていたなら(ショーペンハウアーがきわめて印象的な例として挙げているように)、自然は人工の光に飛び込んで焼け死ぬ哀れな昆虫やその他の動物に、危険を避けるもっと確実な本能を与えたことだろう。自然はドイツ人に特別な資質を授け、それによって彼らの使命を定めたが、そのときいつか新聞を読むという行為が考え出されることは予見していなかった。自然はドイツ人に多大な愛情を注ぎ、ドイツ人が印刷術の発明によってみずから不幸を招き寄せるほどに、多くの発明の才を与えた。人工の火や人工の印刷術は、それ自体有害なものではない。だが少なくとも印刷術はドイツ人だけを時とともに混乱に陥らせることになった。印刷術とともにドイツ人の間で早くから過度にラテン語を取り入れたり、ラテン風の名前を名乗るようになったり、母国語を蔑ろにしたり、それまで騎士や王侯と同じ言葉を話していた本来の民衆には縁のない文学を創り出すような風潮が生じた。ルターは印刷術にはしたたか手を焼いていた。彼は悪魔が乗り移ったような身辺の出版活動を、もっと大物の悪魔ベルゼブブに憑かれたように書きまくることで撃退しようとしたが、そのあげく彼自身がそのために筆舌に尽くしがたい苦労を重ねてきた民衆にとっては、よくよく考えてみれば教皇のような存在が相応であることに気づいたのである。言葉、言葉—そして文字、またしても文字、しかし生きた信仰は微塵も見られない。
「希望は持てるのか」(1879)
~三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P141-142
知識や言葉の功罪、その本質をワーグナーは見抜いていたようだ。
心のあり方がいかに重要であるか。
ワーグナー編曲によるアレヴィやエルツの序曲には、いかにも彼らしい静かな(?)信仰が宿るのがわかる。
そして何より「タンホイザー」序曲の思い入れたっぷりの表情はワーグナーの本懐。