ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管 ショスタコーヴィチ 交響曲第6番(1983.12.19録音)ほか

初めて聴いたときから、どうにも土臭くない、ソヴィエト的な要素の薄いショスタコーヴィチだと思っていた。録音の前後に世に出た「証言」を指揮者が読んでいたのか、知っていたのか、正直僕は知らない。しかし、どちらにしても不思議に明るい、余分な思念が削がれたショスタコーヴィチであることは間違いない。

わたしの人生は不幸にみちあふれているので、それよりももっと不幸な人間を見つけるのは容易でないだろうと予想していた。しかし、わたしの知人や友人たちのたどった人生の道をつぎからつぎと思い出していくうちに、恐ろしくなった。彼らのうち誰ひとりとして、気楽で、幸福な人生を送った者などいなかった。ある者は悲惨な最期を遂げ、ある者は恐ろしい苦しみのうちに死に、多くの者の人生も、わたしのよりもっと不幸なものであったと言うことができる。
ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P477

ソヴィエト連邦という国がどういう国だったのかは、当時はほとんど闇の中だった。この書の真偽はとりあえず横に置くにせよ、暗に(正面から?)体制を批判する作曲家の心中はいかばかりだったろう。

そのために、わたしはいっそうつらい思いにかられる。わたしの知っている人々を思い出すと、目に入るのは屍体、屍体の山ばかりである。これは誇張ではなく、まさしく屍体の山ばかりなのだ。この光景も、やりきれない憂愁でわたしの胸をいっぱいにする。つらい思いにかられ、どうしようもない悲しみに耐えられなくなる。この不愉快な仕事を、何度、わたしは放棄しようと思ったことか。まったく、よいことなどなにも見られない以上、自分の過去の人生から、なにも思い出さないほうがよかったのだ。まったく、わたしはもうなにも思い出したくなかった。
~同上書P477

回想することの辛苦を訴えながら、しかしこの「証言」の意味と意義を明確に綴るショスタコーヴィチの勇気。正面から彼の音楽を解釈する勇気。彼の内なる複雑な思念を脱却し、ただ楽譜に忠実に音楽を奏でる勇気。もしこの録音のことを評するなら、そういう表現が一番正しいのかもしれない。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第5番ニ短調作品47(1937)(19815.21-23録音)
・交響曲第6番ロ短調作品54(1939)(1983.12.19録音)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

荘厳で重厚な第1楽章ラルゴに始まり、第2楽章アレグロ、そして終楽章プレストと、徐々に速度を上げていく興奮とクライマックスの交響曲第6番は、交響曲第5番の次なる作品として期待を寄せた大衆のそれを半ば裏切った(?)、奇を衒ったような音楽だが、実に緻密な計算と仕掛けの下、書かれた傑作だ。

ハイティンクの指揮する第6番においては、それこそ脱力の第1楽章ラルゴが出色。それこそ苦悩の垣間見える音楽を、続く2つの楽章が塗りつぶして昇華しようとするも、そんなのは嘘っ八だ。しかしながら、ハイティンクの解釈は違う。愉悦も狂乱も決して表面的なものでなく、芯がある。

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