「聖金曜日の奇蹟」。
初めて耳にしたとき、僕はとても感動した。
それは、神聖な、それでいて人間的な、熱いパッションを伴う演奏だった。
1938年という古い録音は、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの指揮によるもの。
以降、僕は録音でも実演でも数多の「聖金曜日の奇蹟」に触れてきた。どんな演奏でもその美しさに言葉を失うが、フルトヴェングラーのあの演奏を凌駕するものについ出会ったことがなかった。
クリスティアン・ティーレマンがフィラデルフィア管弦楽団を指揮した録音を聴いたとき、いかにもアメリカのオーケストラらしく妙に明るい点が若干気になったのだけれど、少なくとも弦楽器の出す、何とも表現し難い濃密な音に僕は頭がショートしたかのように止まってしまった。
厳密には、僕はその音が気になったのである。
繰り返し聴いた。やっぱり分厚い、熱のこもった音楽はとても素晴らしかった。
静謐な「パルジファル」前奏曲に心が動く。
リヒャルト・ワーグナーの最高峰を若きティーレマンは(彼らしく)ドイツ魂むき出しに歌う。
道徳性というものを、自分の信念への忠実さと定義するのでは足りない。それ以上に絶えずこういう問いを自分でかき立てなければならない。つまり「自分の信念は確かなものであろうか」という問いを。信念の判断基準は常に一つ、すなわちキリストである。だがこれはもはや哲学ではなく、信仰であり、そして信仰とは赤い花だ。
(ドストエフスキーのカヴェーリンへの回答)
~ミハイル・バフチン/望月哲男・鈴木淳一訳「ドストエフスキーの詩学」(ちくま学芸文庫)P200
真の覚悟とは信仰の上に成り立つものなのだとドストエフスキーはいう。
おそらくワーグナーも同じような見解を持っていただろうが、ワーグナーは堕落した現存する宗教に幻滅し、それに代わる真の芸術作品を追究した。「パルジファル」が最終回答なのかどうかはもちろんわからない。志半ばに生を終えたワーグナーの苦悩、悔恨が聞えてくるようだ。