グールドのバッハ「平均律クラヴィーア曲集第1巻(第1番-第8番)」(1962録音)を聴いて思ふ

機械仕掛けのように正確無比なグレン・グールドのバッハ。
通奏低音のようにそこにある彼の鼻歌だけが、この演奏が機械によるものでなく一人の生身の人間によるものであることを明らかにする。無機質な響きの中にある微かでありながら確かな温かみ、すなわち人間味。それこそが彼のバッハにある普遍性の源であるように僕は思った。

そして、グールドは聴衆とではなく、むしろ自分と向き合うためにバッハを弾いた。

複数の声を支配する者となり、われわれを部分に分けるあの数々の声から離れ、生そのものにもひとしいフーガの諸部分を組み立てる。おそらくこれは自分は無意識とは無縁だというひとつの言い方だろう。別の声、それをわたしは提示することができる。つまりそのとき反転主題の後で正主題を提示し、別の声部を前面に登場させ、カットし、また呼び戻し、やり直すことができる。時間による損傷を押しとどめ、コンサートのはかなさ(実演にそなわるいきいきした―つまり死と接するということだ―側面)から逃れ出る、それがスタジオに閉じこもったグールドの目指していたことだ。つねに別のテイクが存在することになるだろう。取り替えることができる部分が別に存在し、またミスタッチ、つまり朽ちてゆく身体にいやおうなくつきまとうあのしみを消し去るビニールの仕上げが存在することになるだろう。痕跡に操作を加える、グールドにはそれができたし、自分でも言っていたが、この操作はみずからの傷つきやすさを保護するためのものにほかならなかった。
ミシェル・シュネデール/千葉文夫訳「グレン・グールド孤独のアリア」(ちくま学芸文庫)P212-213

グレン・グールドの演奏するバッハの「前奏曲とフーガ」は、繰り返し聴かれることを前提に「保護された」代物で、当時はまだコンサート・ドロップ前であったにもかかわらず、そのことを予見するかのように音楽はどの瞬間も儀式的で堅い。まるで教会でミサに触れるような緊張と信仰がある。

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻
・前奏曲とフーガ第1番ハ長調BWV846(1962.6.7&9.21録音)
・前奏曲とフーガ第2番ハ短調BWV847(1962.6.7録音)
・前奏曲とフーガ第3番嬰ハ長調BWV848(1962.6.7&9.20録音)
・前奏曲とフーガ第4番嬰ハ短調BWV849(1962.9.21録音)
・前奏曲とフーガ第5番ニ長調BWV850(1962.9.20録音)
・前奏曲とフーガ第6番ニ短調BWV851(1962.6.14録音)
・前奏曲とフーガ第7番変ホ長調BWV852(1962.9.20録音)
・前奏曲第8番変ホ短調&フーガ第8番嬰ニ短調BWV853(1962.9.20録音)
グレン・グールド(ピアノ)

初めて聴いたときは(頭脳的過ぎて)正直あまりピンと来なかったのだけれど・・・。
しかし、例の有名な前奏曲の後に弾かれるハ長調のフーガなど、今になってその物憂げな音色にシンパシーを覚える。できるだけ感情を排し、ただ音楽が鳴るように操作を加えても、どこかに紛れる彼の内なる哀惜の想いが表出しており、とても興味深いのである。
あるいは、嬰ハ長調の前奏曲での、弾ける喜びの旋律の裏に感じるやはり悲しみと、続くフーガにみる揺れ動く感情の美しい投影・・・。何て素晴らしいのだろう。
さらには、嬰ハ短調のフーガの、淡々と奏される中にある優しさ、人間らしさ。グールドはうなる。

グールドの美学は発見のための方法である。「演奏家の第一の本能は付け加えることであって奪い去ることではない」というのに、彼の美学は奪い去る。インスピレーションや直感を疑い、長い時間をかけて考え抜かれた演奏解釈、おそらく彼はそのような演奏解釈に事後のチャンスを与えたのだ。グールド、それはピアノの演奏のあり方というよりもピアノに向かう存在様式を意味していた。
~同上書P134

「ピアノに向かう存在様式」とは言い得て妙。確かにグレン・グールドという存在こそが鍵なのである。

 

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2 COMMENTS

雅之

>つねに別のテイクが存在することになるだろう。

我々クラヲタの間で常に物議を醸す、録音芸術の功罪っていうやつですよね。

でも、録音という技術が存在しなかったころ、たとえばブルックナーなどの作曲家は「みずからの傷つきやすさを保護するため」に、楽譜の改訂を何度も何度も繰り返していたわけで、グールドもこれと本質的には同じなのでは・・・。

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岡本 浩和

>雅之様

>グールドもこれと本質的には同じなのでは

おっしゃる通りですね。
ちなみに、別テイクというのは後の時代の人間には興味深いものなので、僕にとってはどちらかというと罪より功の方が大きいですね。あまりに継接ぎで細かすぎると嫌になりますが・・・。(笑)

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