
私は作曲家の仕事を、昔の吟遊詩人のようなものだと考えている。当時は人々の前へ行き歌で活気づけたりしたものだ。今、音楽で何かを祝いたい人がたくさんいることを私は知っている。私はそういう人たちのために作曲をする。
(サー・エドワード・エルガー)
人の本性は慈しみであるというが、人とつながるのは慈しみの発露と同時に、共に楽しむためにあるのだと思う。しかし、性格・性質の自分で物事に対処しようとすると、人は自ずと苦しみの共有によって共感を生み出そうとする。本性にリーチできることがどれほどのアドバンテージになるか。良い音楽はきっとその媒介になるのだと思う。
1920年4月の最愛の妻の死以降、エルガーは大作の筆をほぼ折ることになるが、その直前の、いわば創作活動の最頂点にあった巨匠の、内省的逸品が弦楽四重奏曲であり、ピアノ五重奏曲だった。
尊敬するロベルト・シューマン以上に悲哀が表出し、ブラームス以上に浪漫の音調を湛える弦楽四重奏曲は、いぶし銀の傑作。冒頭、悲愴感漂う静かな主題を持つ第1楽章アレグロ・モデラートの慟哭に一聴惹かれる。そして、妻アリスが愛したという第2楽章ピアチェヴォーレ(ポコ・アンダンテ)の慈悲はブラームスの作品との双生児のようだ。
内へ内へと振り返る終楽章アレグロ・モルトがまた内省的で素晴らしい(内省力はブラームス以上か)。
一方、ピアノ五重奏曲は、当時のエルガーの充実した心境ぶりを示す逸品。
心底から喜び湧き上がる第1楽章モデラート—アレグロ、と思いきや、終結は暗い悲しみに包まれる。大英帝国の暗鬱たる風景と同期する心象は、エルガーの根っからの性質の反映なのかどうなのか(フロレスタンとオイゼビウスの如く)。そして、甘く懐かしい音調の第2楽章アダージョは、まもなく訪れる愛妻の死を予言するかのような、まるで愛別離苦を表現する心情吐露だ。さらに、弦楽器とピアノが悲痛な叫びをあげる終楽章アンダンテ—アレグロは、作曲家として実績を積み上げてきたエルガーの総決算ともいえる哲学的重み。
オグドンとアレグリ弦楽四重奏団の阿吽の対話が美しい。