フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル チャイコフスキー 弦楽セレナーデ ハ長調作品48(抜粋)(1950.2.2録音)ほか

私たちの周辺には、私たちと生活を共にしながらも、実際には精神の死んでしまった空ろな眼で私たちを見つめ、しかも自分ではこのことを知らないという知人や友人がいる。それを知る、厳密に言えばそれに気づくことができるのは、もちろん精神を自己にそなえている人々だけであり、それも精神を保持している間のことだけである。なぜならその間においてだけ、精神の欠如が不自由なものに感じられるのであるから。
「精神の死」(1941)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P128

ただやみくもに生きているのではなく、そこに慈しみと智慧があるということ、(今の風潮に換言すれば)すなわちそれは本性真我に立脚した状態を作るべきだとフルトヴェングラーはいう。それでこそ芸術の真髄にリーチできるのだが、現代においてはそれを喪失してしまっている人々がいかに多いことかと彼は嘆く。

しかし、実際のところは、いわゆる精神性などと言う言葉はまやかしで、大半の人が死んだ精神とともに生きている(いた)のだと思う。人々が本性真我に立脚できればそもそも戦争など起こり得ないのだから。

果して録音に聴くフルトヴェングラーの音楽芸術の精神性はいかに?
(戦中のテレフンケン録音などは生命力あふれる精神活動の賜物だと思う)

フィッシャー フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ピアノと管弦楽のための交響的協奏曲から第2楽章(1939.4.25録音)ほか

最近はプログラムも非常に制限が多くて困ります。同じ場所で指揮する回数がきわめて限られていて、多くの場合一回きりです。数回も演奏会が持てる場所などめったにありません。こんな場合、聴衆は私からだいたい古典の大曲ばかり期待します。聴衆の声が直接それを「要求する」のでもなければ、新しい作品を取り上げることはまず不可能です。自由にお膳立てできるチクルスなら話は別ですけれども。音楽の世界がいつまでもこのままであろうはずはなく、再び(オトマール・)シェックのような作品が広く評価される時もくると私は信じております。
(1950年1月3日付、ハンス・コロディ宛)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P238

常に進歩と向上を目指したフルトヴェングラーの心底にあったのは変化しないことへの危惧だったのではなかろうか。聴衆に迎合することなく、常に革新を希求していた彼にあって、矛盾は付きものだった。

ご高著『諸民族の博物史および受難史に関する考察』がどれほど私を感動させ、昂奮させたかを、お伝えせずにはいられません。これは、今日の学問の立場から、もっとも生々しい現代の問題の一つを取り扱っているばかりでなく、それを超えて、広汎な普遍性をもった一個の精神の証言ともなりえています。
(1950年1月11日付、フランク・ティース宛)
~同上書P238-239

普遍性を重視したフルトヴェングラーの本懐。
彼の芸術の根底に常に流れていたものは、そして彼が意図して目指そうとしていたものは「普遍性」だった。そして、彼の芸術は没後70年を経ても廃れることなく、人々が求め続けるものに発展した。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」第3幕から「ジークフリートの葬送行進曲」(1950.1.31録音)
・ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第3幕前奏曲(1950.2.1録音)
・ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲(1950.2.1録音)
・シューベルト:劇付随音楽「ロザムンデ」から間奏曲第3番&バレエ音楽第2番(1950.2.2録音)
・チャイコフスキー:弦楽セレナーデハ長調作品48から(1950.2.2録音)
 第2楽章ワルツ&第4楽章
・ヨハン・シュトラウスII世&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカ(グロッケンシュピール付)(1950.2.3録音)
・ヨハン・シュトラウスII世&ヨーゼフ・シュトラウス:ピツィカート・ポルカ(グロッケンシュピールなし)(1950.2.3録音)
・モーツァルト:歌劇「魔笛」K.620から夜の女王のアリア(1950.2.3録音)
 第1幕「恐れおののかなくてよい」
 第2幕「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」
ヴィルマ・リップ(ソプラノ)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

1950年初春のウィーン・フィルとのEMI録音は、すべてウォルター・レッグのプロデュースによるもの。例によってスタジオでのフルトヴェングラーの演奏は極めて冷静なものだが、演奏の根幹に流れる熱気やデモーニッシュな響きはライヴのときと変わらず。チャイコフスキー以外は独墺モノの、フルトヴェングラーお得意のレパートリーであり、それこそ一般大衆が求める音楽たちだが、先の彼の言葉とは裏腹に、音楽をしているときの喜びに溢れている。

そして、チャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」がなぜ全曲の録音が成されなかったのか不思議でならないが、これはフルトヴェングラーの魔力が縦横に染みわたる、しかし一見何事もないような自然さに満ちる逸品だと僕は思う(第1楽章と第3楽章がほしかった)。

ちなみに、ヨハン&ヨーゼフ・シュトラウスによる「ピツィカート・ポルカ」はグロッケンシュピールのありなし両バージョンが収録され、興味深い)。

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第7番(1950.1録音)ほか ムラヴィンスキー指揮レン・フィルのチャイコフスキー弦楽セレナード(1949録音)ほかを聴いて思ふ ムラヴィンスキー指揮レン・フィルのチャイコフスキー弦楽セレナード(1949録音)ほかを聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのケルビーニ「アナクレオン」序曲ほかを聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのケルビーニ「アナクレオン」序曲ほかを聴いて思ふ フルトヴェングラーのモーツァルトK.466 フルトヴェングラーのモーツァルトK.466

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