フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 交響曲第7番(1950.1録音)ほか

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、「指揮の諸問題」と題する1929年の論文で次のように書く。

そしていまや、アメリカから私たちに「模範的」なものとして呈示される、あの技術的に「無味乾燥な」演奏の理想が姿を見せるようになる。それはオーケストラ演奏においては均整のとれた、洗練された音色美を通して顕示され、この音色美は決して一定の限度を越えることなく、楽器それ自体の音色美という一種の客観的な理想を追うのである。ところで作曲家の意図は、このように「美しく」響くということにあるのだろうか。むしろ、このようなオーケストラや指揮者によって、ベートーヴェンの律動的・運動的な力ならびに音の端正さがまったく損なわれてしまうことは明らかである。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P102-103

志向性の多様な現代にあっては確かに「美しく」響くだけの音楽を求める人も中にはいよう。しかしそれでも、1世紀近くも前のフルトヴェングラーの指摘は一理ある。外面的効果よりも精神性、すなわち音楽そのものが求める様式こそが音楽の命だと彼は言うのである。

・ベートーヴェン:交響曲第7番イ長調作品92(1950.1.18-19録音)
・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」よりジークフリートの葬送行進曲(1950.1.31録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
※新星堂オリジナル企画SGR-8002

曖昧な指揮法によってアインザッツの揃わない、しかし、それによって爆発的な破壊力を示す第1楽章序奏ポコ・ソステヌートこそ、外面的効果を狙わないフルトヴェングラーの真骨頂。40数年前、初めて聴いて打ちのめされたあの感覚はいまだに僕の身体にはっきりと残っている。

同じ録音でも数種の音盤が流通するフルトヴェングラーの場合、試聴環境もおそらく随分影響するだろう、基本的に僕は音響的拡がりのあるブライトクランク盤を愛聴するが、いつぞや「SP原盤からの(世界発復刻)」という触れ込みの、新星堂オリジナル企画盤を手に入れたとき(1994年のようだ)、その重低音に至極感動を覚えたことを思い出す(今となってはこもり気味の音質が気になってしまうのだが)。

フルトヴェングラーの「第7番」は、もともとLP用のオリジナルのマスターテープ作成時、第4楽章アレグロ・コン・ブリオ中間部に女性の話し声と紙を捲る音が混入し、そのレコードが流通してしまったおかげで基本的にどんなレコードにもこの雑音が刷り込まれていることで有名だ(知る人ぞ知る?)。それを、世界で初、未使用に近いSP盤を使用してあらためてマスターテープを制作し、作られたCDがこの新星堂オリジナル企画盤なのであった。

フルトヴェングラーの志向をなぞるなら、音楽の再生という点でそれこそ雑音という音楽に直接に関係のないものは関係ないのだが(そういう意味で僕自身もこの企画盤がリリースされるまで知らなかったし、ましてや気にもならなかった)、それでも正規の、雑音のない終楽章に僕は新鮮さを感じた。

それにしても、同じくCDとして本邦初登場と謳われた「ジークフリートの葬送行進曲」の、(ウィーン・フィルとのものだからだろうか)デモーニッシュさの後退した、柔和で清澄さを伴うフルトヴェングラーの奇蹟に、当時も今も僕は舌を巻く。

たしかに、ドイツ人は究極において北方的な起源を有している。そしてドイツ音楽の根本的性格、その暗い悲劇的な力、いとも明るく澄みきった形象にも宿る控え目な情愛と柔和さなどにしても、また北方的である。しかも、バッハの音楽ほど、古典芸術の真の標識ともいうべき有機的な発展と形成の法則を深く把握したものが、他のどこに見られるであろうか。必然性のための断念、形成のかぎりない透明さをともなった偉大な簡潔さと自制とが、ベートーヴェンにまさる形でどこに存在するだろうか。
「芸術におけるドイツ的なものへの問い」(1937年)
~同上書P113

ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、135回目の生誕日に。

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