小澤征爾指揮フランス国立管のサン=サーンス「オルガン交響曲」(1986録音)ほかを聴いて思ふ

seiji_ozawa_the_emi_recordingsまずは「知ること」。
何事もそこから始まるのである。

判断することは人間の常だけれど、その判断そのものが真理でないことはわかっておいた方が良いだろう。冷静に、客観的に対峙することは実に難しかろう。人間とはそもそも主観的存在ゆえ。

小澤征爾は僕の中でほとんど知らない人だった。
もう30年近く前だけれど、その頃の僕は小澤には興味がなく、しかし仕事柄どうしても彼の実演を聴かなければならない時があり、渋々群馬県高崎市まで出かけ、群馬交響楽団への客演コンサートに触れたことがあった。
プログラムは、プロコフィエフの交響曲第5番とチャイコフスキーの同じく第5番という強力なロシアン・プログラム。ホールは満員どころか立ち見が出たほどで、聴衆の大変な熱狂ぶりを今でもまざまざと思い出せる。
ところが僕は、演られたはずのアンコールが何だったのか、情けないかなまったく記憶がない。それくらいに彼のことに「知らなかった」のである。

当り前のことだが、知らなければ興味など起こるはずがない。
好き嫌いは人間の性ゆえ、それは仕方ない。要は「食わず嫌い」をすることが一番の問題だということ。チャレンジし、痛い目にあった方が良い。もちろん良い思いもするべし。

冷静で客観的で、しかもよく流れる音楽。
小澤征爾が指揮するサン=サーンスを聴いて思った。熱いと。美しいと。
颯爽としたテンポで進められる音楽には、日本人が本来持っている奥ゆかしさが感じられる。それが西洋文化と相俟ったときに生じた(出るでも下がるでもない)見事な中庸(それは捉え方を間違えると「平凡」と表現が変わるだろう)。何より僕は小澤に内燃する「熱い思い」を聴き逃していた。
壮年の小澤の指揮した、天才サン=サーンスが持てるすべてを注ぎ込んだ名作交響曲を虚心に聴くが良い。

・サン=サーンス:交響曲第3番ハ短調作品78「オルガン付」
フィリップ・ルフェーヴル(オルガン)
小澤征爾指揮フランス国立管弦楽団(1986録音)
・ボロディン:歌劇「イーゴリ公」第2幕~だったん人の踊り(リムスキー=コルサコフ&グラズノフ編曲)(1969録音)
・ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲(1970録音)
小澤征爾指揮シカゴ交響楽団

一層素晴らしいのは、シカゴ交響楽団を指揮してのルトスワフスキの協奏曲。
オーケストラのソロの力量は当然ながら、こういう複雑な現代の音楽を完璧にさばき、しかも冷静に美しく魅せる若き小澤の技量は大したもの。すべてを通して音楽しか感じられないところが驚き。熱い!
第1楽章導入曲における沈潜と爆発の対比。金管の巧さ!
また、第2楽章「夜の奇想曲とアリオーソ」の木管の繊細な歌に酔い痴れ、弦と打楽器、そして金管の錯綜にも感応。
白眉は、終楽章「パッサカリア」。背後に迫る打楽器と弦楽器の猛烈な伴奏を背景に咆える金管が少しもうるさく感じられない。一瞬、無機的に感じられる音楽の内側にある血のたぎり。鮮烈!

名曲「だったん人の踊り」も、これまた小澤らしい、切り口巧妙な名演奏。

もう少し「わかる」ということについて考えを進めていくと、「そもそも現実とは何か」という問題に突き当たってきます。「わかっている」べき対象がどういうものなのか、ということです。ところが、誰一人として現実の詳細についてなんかわかってはいない。
たとえ何かの場に居合わせたとしてもわかってはいないし、記憶というものも極めてあやふやだというのは、私じゃなくても思い当るところでしょう。
世界というのはそんなものだ、つかみどころのないものだ、ということを、昔の人は誰もが知っていたのではないか。その曖昧さ、あやふやさが、芥川龍之介の小説「藪の中」や黒沢明監督の「羅生門」のテーマだった。同じ事件を見た三人が三人とも別の見方をしてしまっている、というのが物語の一つの主題です。まさに現実は「藪の中」なのです。
養老孟司著「バカの壁」(新潮新書)P18-19

僕たちは死ぬまで何もわからないということ(死んだってわからない?)。
謙虚であれ。

 

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2 COMMENTS

雅之

小澤征爾の半生について、自他それぞれが書いた著作物を読むと、どれについても、その人間くさく熱い生き様にやたら感動してしまうんですよね。

職場の上司とかで、外部から眺めていた時と、直属の部下になってからで、全然印象が異なる人がよくいるでしょ。小澤は典型的にそういう人だと思うんですよね。だから、多くの演奏家が彼を慕って付いて行く・・・。

彼の直近については知りませんが、もう少し若いころの新日フィルやボストンSOとの生演奏を何回か聴いていて、その火を噴くような熱い演奏にいたく感動したものでしたが、年齢を重ねるごとに演奏自体の丁寧な音楽造りと引き換えに高揚感は薄れていったように感じ、私は彼の演奏を段々聴かなくなりました。この時期、小澤は小澤で多忙になり過ぎたんだと勝手に思っています。

今年、小澤が、ラヴェル「こどもと魔法」

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB-%E6%AD%8C%E5%8A%87%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%A8%E9%AD%94%E6%B3%95%E3%80%8D-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB/dp/B00LCDCJ26/ref=sr_1_1?s=music&ie=UTF8&qid=1469129964&sr=1-1&keywords=%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E3%80%80%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%AB

でグラミー賞を受賞しましたので、直後に友人にそのCDを借りて聴いてみましたが、深みのある素晴らしい演奏でした。

ご紹介の録音もそうですが、彼指揮のフランス物は特に魅力的ですよね。

小澤征爾こそ、イチローと並び、日本人として誇るべき、現役で超一流の開拓者と呼んでいいんじゃないでしょうか。

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岡本 浩和

>雅之様

>小澤征爾こそ、イチローと並び、日本人として誇るべき、現役で超一流の開拓者と呼んでいいんじゃないでしょうか。

はい、返す言葉が思いつきません。

まだまだ僕は勉強不足ではありますが、70年代から80年代にかけての小澤の演奏はおっしゃるとおり「火を噴くような熱い」ものだったのだろうと僕も思います。
僕が学生だった当時、新日本フィルだったかにアルゲリッチが招かれてチャイコフスキーの1番を披露したとき、指揮は小澤が務めたようで、それを実演で聴いた友人がアルゲリッチとの丁々発止の爆演に失禁するほど感動したと言っていたことを思い出しました。
それこそフィナーレは一世一代の最高の演奏だったみたいですね。
ご紹介のグラミー賞受賞のラヴェルは当然未聴です。
じっくりと聴いてみようと思います。

ありがとうございます。

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