ピエタ施療院はヴィヴァルディの任務として教育を予定していたのだが、同時に最良の環境において音楽研究を深める機会をも与えた。四六時中専念することによって天性の才能に技術的な熟練が与えられ、それを具現化したのが彼の比類のない名人芸であり、弦の上をめくるめくような速さで動き、駒すれすれまでほとんど指板全部を使って追いかけっこをしている指であり、肉体の揺らぎと完全に同調して音と動きの魅惑的な効果を創り出す弓の上下運動なのである。
~ジャンフランコ・フォルミケッティ/大矢タカヤス訳「ヴィヴァルディの生涯 ヴェネツィア、そしてヴァイオリンを抱えた司祭」(三元社)P46
天性の才能を職場で生かすことができたアントニオ・ヴィヴァルディは幸せだ。
しかし、伝承される物語の真偽は正直わからない(少なくともヴィヴァルディの音楽的センスについては間違いない事実だと思うけれど)。
ヴィヴァルディは天性の才能のあらゆる特質を授かっていたが、果断な性格のおかげでそれを職業と楽しく結びつけることができたのである。昼夜分かたずピエタで経験を積んでいたこの25歳の青年のレヴェルはずば抜けて高かった。その教育法によって彼が獲得するに至った結果は多くの機会に注目されることになり、彼が教えているということでピエタ施療院の権威は高まり、他の施設をはるかに凌いだ。当時の著名な有力な人物たちも、彼の演奏会に来るだけでなく、彼に会おうとするようになり、自筆の楽譜を入手するためにラグーナでの滞在を延長するようになったが、それは彼が今やヴァイオリンの巨匠であるのみならず、大作曲家としてどんどん名を上げていたからであった。
~同上書P47-48
バッハもヘンデルもそうだが、当時の音楽家で名を成す人たちは、いずれもがいわゆるビジネス・センスに長けていたであろう(もちろんそれは今も変わらないだろうが)。聖職者であるにもかかわらず俗世間にまみえ、世俗音楽の世界でも活躍したであろうヴィヴァルディにとって、「音楽の喜び」という観点において聖も俗もなかったと思われる。
1711年2月、赤毛の司祭と父親はブレッシャに移動し、そこのサンタ・マリア・デラ・パーチェ教会で、2日と8日に聖母マリアお清めと聖体の秘蹟の祝典のために演奏する。翌年、あの壮麗な『スターバト・マーテル』(Stabat Mater)が作曲され、エジディオ・ポッジの回想によれば、1712年、3月18日、「聖処女マリアの7つの苦しみの祝典のための晩祷聖歌として」演奏されたという。やはりブレッシャの同じ教会においてであった。
~同上書P50
「崇高なる」という言葉では言い表すことのできない静謐なるヴィヴァルディの「スターバト・マーテル」。アンドレアス・ショルの独唱が光る。
ヴィヴァルディの本業は作曲においても変わらない。
世俗作品のイメージとはかけ離れる魂の慟哭を静かに表現する。
その音楽はどこまでも鮮烈だ。
ショルの歌は、カウンターテナー(男性のファルセット)であるにもかかわらず、まったく無理がない。両性具有的、中性的な、色香を排除した真っ白な静けさがある。