神無月がゆく

大地の楽器である(と勝手に僕が思っている)ピアノと宇宙の楽器である(と、これまた勝手に僕が思っている)チェロが織り成す「あまりに人間的な」音楽、ブラームスのチェロ・ソナタ。
同時代に生きたワーグナーやブルックナーの音楽を聴くと人間とはかけ離れた遠大な「宇宙的規模」の創造主を感じさせるのだが、ブラームスとなると全く逆の性質で、内へ内へと入り込んでいくミクロ・コスモスの不発弾のような印象を僕は感じる。芸術家に限らずなのだが、時代や地域が同じとはいえ、人間一人一人の持っている役割やエネルギーはこうも違うのだということを再認識させられるのだ。
ブラームスの音楽は渋い、といつか書いたと記憶する。彼の音楽は「ネクラ」の音楽だ、とある音楽評論家は語っている。そして、若い頃、「ネクラ」な僕でも受け付け難い「イジイジ」感を感じたこともまた事実なのである。

ブラームス:チェロ・ソナタ集
ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ(チェロ)
ルドルフ・ゼルキン(ピアノ)

今年の4月に亡くなったロストロポーヴィチの演奏は、自身の「気」と同様にそのチェロまでもがしっかりと地に足をつけ、大地に根を張ったゼルキンのピアノと地鳴りのようなハーモニーを奏でる。チェロとピアノが渾然一体となり、どちらがチェロでどちらがピアノの紡ぎ出す音なのかふと認識できなくなってしまうほどの超越的な「一体感」が特徴の演奏だ。まさに「ハーモニー」とはこういうことだろう。

ロストロポーヴィチは生前、常々「人類の平和」というものを意識し、音楽活動を行っていた。人間が今は亡き二人の老巨匠のような、こういう「調和」を地球規模で奏でることができるようになった時、真の平和が訪れるのかもしれない。

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