吉田秀和氏を悼んで

吉田秀和氏が亡くなられたという。98歳という天寿を全うして。
とはいえ、つい先日まで記事を拝見したり、写真ではあるけれど元気そうなお姿を見ていたので正直驚いた。人間は誰しも必ず死を迎えるわけだから、しかも氏の場合100に近い年齢のわけだからいつこういうことが起こっても不思議ではないのだが、それにしても唐突過ぎる。儚い・・・。
奇遇なことに、数日前、フルトヴェングラーの歴史的録音を聴き漁っていた時、1954年のザルツブルク音楽祭での有名な「ドン・ジョヴァンニ」の音盤も久しぶりに耳にしていた。ああ、そういえばこの実演をフェルゼンライトシューレで吉田さんは聴いておられたんだっけ、羨ましいなという想いを重ねて。

私は、まずその年の5月にパリで、ベルリン・フィルハーモニーを率いてきたときのフルトヴェングラーを2日間続けざまにきいた。それから7月から8月にかけて、ザルツブルクでオペラ『ドン・ジョヴァンニ』と『魔弾の射手』を指揮する彼をきき―この時のオーケストラはヴィーンの国立オペラ、つまりはヴィーン・フィルハーモニーの連中だったはずである―、その足で今度はバイロイトにまわって、あすこの祝祭劇場でベートーヴェンの『第9交響曲』をきいた。この時と同じメンバーによる1951年度の演奏がレコードになって残っている。
吉田秀和全集5指揮者について~フルトヴェングラー)

モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
チェーザレ・シエピ(ドン・ジョヴァンニ)
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ドンナ・エルヴィーラ)
アントン・デルモータ(ドン・オッターヴィオ)
オットー・エーデルマン(レポレッロ)
ワルター・ベリー(マゼット)
エリーザベト・グリュンマー(ドンナ・アンナ)
デジュー・エルンスター(騎士長)
エルナ・ベルガー(ツェルリーナ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.8.6Live)

それだけに、『ドン・ジョヴァンニ』は、彼に最も向いていた。どだい、E.T.A.ホフマンをはじめ、19世紀初頭のロマン主義者たちが、モーツァルトを「発見した」のはデモーニッシュな魅惑にみちた『ドン・ジョヴァンニ』の天才的作曲家としてだったのだから。キルケゴールにしても、そうである。
だが、私は告白しなければならない。せっかくフルトヴェングラーのその『ドン・ジョヴァンニ』にふれるという千載一遇の機会を与えられながら、そうしてまた、私は感激したのもはっきり覚えているのだが、さて、その演奏の具体的なこととなると、どうもはっきり想い出せないのである。当時はまだフェストシュピールハウスができる前で、舞台の背後が岸壁でできていたフェルゼンライトシューレの大ホールで上演されたわけだが、その岸壁を巧みにつかって、大詰めの場で、真黒な闇の中を、上段から中段にいたるまで、一面に、修道僧の黒衣に身をかためた合唱団が、手に手に蝋燭をもって動いていた姿が、いまだに、目に浮かぶ。そのほか、局部的には、あれこれを思い出しはする。・・・(中略)・・・
だが、音楽では、序曲が、何だか、とてもよかったような気がするのだが、それが、はっきり音になって記憶に蘇ってこないのである。口惜しい限りである。こんなところ、私はまだ、だめである。特にオペラのきき手としては落第だ。
吉田秀和全集5指揮者について~フルトヴェングラー)

多分高校生の時か、大学生の時か、フルトヴェングラーにかぶれていたその当時読んだ吉田秀和氏のこれらの文章に釘付けになり、触発され(それにしても評論家として一流になった後も自分のことをだめだと書き、きき手として落第だとまで謙遜できる吉田氏の潔さが本当に素敵)、何としてもこのオペラを聴いてみたいものだと希がった。ちょうど同じ頃、この「ドン・ジョヴァンニ」が映画化されており、VHSとしてリリースされているということも知った。しかし、2本組か何かで8万円!!到底手が出ない価格であり、僕は毎日チラシを片手にともかくその姿を空想するしかなかった。

ちなみに、何年も後になって、レーザー・ディスクでリリースされたときに僕は初めてフルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」を観て、感激して泣いた。指揮者の姿は序曲の時しか映されていないが、その数分間こそがまさに天国だった。
CDで聴く、この時の演奏は、吉田氏のいう、まさにその序曲にフルトヴェングラーの全てが凝縮されている。
今夜はこの「ドン・ジョヴァンニ」を聴いて、追悼だ・・・。

6 COMMENTS

雅之

こんばんは。

フルトヴェングラー指揮「ドン・ジョヴァンニ」についての本文、当然共感します。

昨年の東日本大震災の後、レコ芸誌上で、人間として真に尊敬に値する立派な態度を執筆活動で示し続けた音楽評論家は、私の知る限り吉田秀和氏ただ一人でした。

音楽が人の心を豊かにするなんて嘘っ八だと、改めて思い知らされました。

吉田秀和氏から、これまでどれほど影響を受けてきたか、はかり知れません。

吉田秀和氏が言葉の限りに絶賛し、私も氏と同じ実演空間を共有でき、心から感動したクラシック愛好家人生最大のクライマックスといったら、私の場合、ベーム指揮ウィーン国立歌劇場の、1980年9月30日、東京文化会館での「フィガロの結婚」に尽きます。

http://www.hmv.co.jp/product/detail/2547493

ベームも、ポップも、プライも、(ヘッツェルも)、そしてついには吉田先生までもが、この世からいなくなりました。

この空虚さは、ちょっと言葉になりません。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
本当に今日は吃驚しました。
雅之さんがおっしゃるように何という5月でしょうか!
朝比奈先生の時も僕は絶句してしまいましたが、その時と同じ感覚に身が引き裂かれそうな思いです。

ベームの最後の来日の「フィガロ」は語り草ですよね。僕は当時人見のコンサートとともにNHK教育テレビで観ておりましたが、今から考えても途轍もないキャストを揃えての公演でしたよね。30年以上前の出来事ですが、昨日のことのように思い出せます。
雅之さんはあの「フィガロ」に実際に触れられたのですよね・・・。本当に羨ましいです。

>ベームも、ポップも、プライも、(ヘッツェルも)、そしてついには吉田先生までもが、この世からいなくなりました。
>この空虚さは、ちょっと言葉になりません。

人の命は永遠ではないということはわかりつつも、そして吉田先生の場合大往生であったことを考慮したとしても、しばらくは虚しい日々が続くのでしょうか・・・。

返信する
畑山千恵子

吉田氏の訃報を聞き、「巨星堕つ」と言う感ひとしおです。吉田氏の文章は、読み手とのコミュニュケーションを心がけつつ書いていたから説得力、存在感溢れるものでした。そこが最近の音楽ライターとは違いました。
今、主要音楽雑誌のグールド関係の記事を調査し、筆写しても、吉田氏をはじめ、多くの評論家、演奏家たちは、読み手とのコミュニュケーションを考えつつ、自らの考えを多くの人々に伝えてきました。その中で、吉田氏の存在は大きなものがありました。
吉田秀和全集も全著作を網羅した新しいものを出してほしいものです。

返信する
岡本 浩和

>畑山千恵子様
おはようございます。
おっしゃるとおり、もう言葉がありません。
98歳だったことを考えれば、いつこういうことになっても不思議ではなかったのですが、直前まであまりにお元気そうだったので余計に空虚感が強まります。

>吉田秀和全集も全著作を網羅した新しいものを出してほしいものです。

同感です。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む