
ジャワで捕虜として監禁された経験を持つがゆえの明朗さとでもいうのか、リリー・クラウスのモーツァルトは確固とした自信に裏打ちされた力強さがあり、また竹を割ったような潔さがある(グレン・グールドのモーツァルトを批判したのもモーツァルトの真髄を直観していたからだろうと思う)。


釈放されたはずであった。スパイ容疑は晴れたはずであった。だが、自由は戻ってこなかった・・・。
前総督夫人と一緒に拘留所内の反乱を画策したという謀略説は、根拠のないものであることが明らかになった。だが、イギリス外務省の後ろ楯を得て身分証明書を発行してもらい、さらにニュージーランド国籍を取得しようとしていたことが明らかになったことから、枢軸側の人間であるとの「建前」が揺らぐことになった。リリー・クラウスは、ハンガリー人であることを主張しているが、限りなくイギリス人に近い「敵性外国人」であると判断されたのである。
~多胡吉郎「リリー、モーツァルトを弾いて下さい」(河出書房新社)P177-178
不都合なことを隠した結果であるといえばそれまでだが、当時の状況からしてみればそれも致し方のないこと。しかし、そういうギリギリの体験こそがピアニスト、リリー・クラウスの表現をより高度なものに伸し上げることになったのだと僕には思われる。
特に恐怖を伴う「負」の経験は、芸術のレベルを自ずと上げる。
何よりモーツァルト自身が短い生涯に吉凶禍福様々な体験を通じて数多の音楽作品を残している点からみてもそのことは明白だ。
クラウスのモーツァルトはやっぱり特別だ。
クラウスが愛したK.456。
屈託なく、童心で歌い上げる(ウィーン時代のピークたる)モーツァルトの愉悦。
第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ。ここではモントゥーの指揮も感応し、管弦楽の響きも喜びに弾けて極めて美しい。
続く、ト短調の第2楽章アンダンテ・ウン・ポコ・ソステヌート。
この悲しげな主題と変奏がもつ音楽は、絶頂期のモーツァルトの背面にある孤独と不安を表わすかのようだ。クラウスの演奏も自身の負の体験を髣髴とさせる重みがある(モントゥーはあくまで黒子に徹している)。
終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェ。
臨席する父レオポルトが感激で涙を流したとされる協奏曲は、天にも昇るような美しさと弾力に溢れている。クラウスは無心に、しかし力強く歌う。