グールド モーツァルト ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282(1967.7&11録音)ほか

12年ぶりにあらためてグレン・グールドのモーツァルトを聴いてみた。
基本、彼の解釈に関しての感想は以前と変わらない。
人工的な、その意味では極めて正確無比の(いかにもグレンという)機械仕掛けのようなモーツァルトに感嘆しつつ、リリー・クラウスが語ったように、「あのあり余る才能でもう少し普通に弾けばいいのに」とつくづく思う。しかし、そうなると、この奇天烈な解釈が逆に愛おしくなるだろうから、突然変異的再生ということにして堪能するのがベストなのかもとも思う。

グレン・グールドのモーツァルトを聴いて思ふ グレン・グールドのモーツァルトを聴いて思ふ

かつてグレン・グールドは、モーツァルトについて次のように語っている。

なるほど、その主人公たる音楽家は、表向きこそは、喜びに満ちた騒音の燦然たる輝きを創り出すのに忙しかった。でも、実はそうやって、やるせないほどの苦痛を懸命に隠そうとしていたのです。彼の音楽には、激しく脈打つ内声部、意表を突いた不気味な転調、気まぐれでシンメトリーを欠いたフレーズなどがあり、苦痛の根源はそこにありました。
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P343-344

モーツァルトが「当時の音楽構造の要求に合わせて、信じられないほど簡単に素早く作曲できる能力こそがモーツァルトの問題であった」というのがグールドの発言の核心だったと編者はいう(その上、グールドは「交響曲やソナタに含まれる諸形式が水増しや穴埋めを強要したからモーツァルトは持ち前の天才で簡単に旋律を補強できたことがさらに問題だった」というのである。さすがにこの論には無条件には首肯しかねるは)。

ただし、条件付きで、現代の音楽、例えばジャズ音楽やロック音楽のように、自由な即興的スタイルを楽しむという視点から、つまり、モーツァルトをポピュラー音楽的に披露したのがグレン・グールドだったと考えれば、一気に納得いくものに変貌する。要は、物事に正否はないということだ。

この世界の最大の問題が、誰もが「私は正しい」と信じていることだ。
しかしながら、実際のところは誰もが「正しく」、そして誰もが「正しくない」というのがこの世界の真理なのだと僕は思う。

まるでオルゴールを聴くような、心地良いモーツァルト。
(それは、リリー・クラウスの紡ぎ出す世界とは両極のものだ)

クラウス モーツァルト ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282ほか(1954.2-3録音)

モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ第1番ハ長調K.279(189d)(1774)(1967.11.9録音)
・ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280(189e)(1774)(1967.8.11&11.9-10録音)
・ピアノ・ソナタ第3番変ロ長調K.281(189f)(1774)(1967.5.25, 26, 11.10録音)
・ピアノ・ソナタ第4番変ホ長調K.282(189g)(1773-74)(1967.7.25, 11.9&10録音)
・ピアノ・ソナタ第5番ト長調K.283(189h)(1774)(1967.5.25& 26録音)
グレン・グールド(ピアノ)

ようやくモーツァルトの初期ソナタの意義が見えてきた今の僕にとって、グールドの演奏はとても楽しかった。繰り返しグールドを聴いてきた耳には、どのソナタの恣意的な解釈も一聴グールドの演奏だとわかる代物である。
色気のない、機械的な節まわしに、それでも強靭なテクニックをもって軽快に歌うところあれば、スタッカートを伴った変ちくりんなフレーズもあり、集中して聴こうとすればまったく飽きなく、面白く聴ける。

従来のモーツァルト演奏へのアンチテーゼとしての、他の誰も真似のできない孤高のモーツァルト(意外に本人が耳にしたら快哉を叫ぶかも!)

K.282の終楽章やK.283の第1楽章の無機質な音楽にこそモーツァルトの真髄が刻印されているのでは、と錯覚させられるほどの力量はグレン・グールドその人のもの。
(情感を排した、徹底的にピアノだけを歌わせる魔法といえば魔法)
偶には黙って無心にこの世界に身を委ねるのもよかろう。

「モーツァルトらしさ」への挑戦状 「モーツァルトらしさ」への挑戦状

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