この物語は、コリオーリ(Corioli)という町で敵を打ち負かしたことによりコリオラーヌス(Coriolanus)という名誉あるラテン名(ドイツ名コリオランCoriolan)を付される英雄となった、ローマ貴族ガイウス・マルキウスまたはカイウス・マルティウス(Gaius Marcius[Caius Martius])の苦悩を描くものである。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P637
序曲「コリオラン」は、ベートーヴェンの、英雄コリオランの葛藤の音楽的描写であり、まさに「交響詩」という概念の嚆矢となったものだと大崎氏は説いている。自らを同化させるかのように深層の苦悩、あるいは葛藤をテーマにすることがそもそもベートーヴェンらしい(本作はベートーヴェンにしては珍しく一切のスケッチが遺されておらず、音楽史の謎の一つである点がまた興味をそそられる)。
ところで、フルトヴェングラーは、序曲「コリオラン」の演奏を3種残している。鬼気迫る、第二次大戦中の、旧ベルリン・フィルハーモニーでの実況録音が、音質も良く、特に素晴らしい。
・ベートーヴェン:序曲「コリオラン」作品62
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1943.6.27Live)
感情が揺れ動く「動」のベートーヴェン。録音で耳にしても心が殊更に揺さぶられるのに、この日、会場で聴いていた聴衆の感動はどれほどのものだったろうか。音の一粒一粒に意志が漲り、音楽は縦横に、そして峻厳に飛翔する。壮絶なティンパニの打撃、あるいは、(多少キンキンするものの)弦楽器の咽ぶような響きと管楽器の咆哮、オーケストラの集中力と指揮者の音楽への陶酔は並大抵でない。
・ベートーヴェン:序曲「コリオラン」作品62
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1947.11.25録音)
戦後すぐのスタジオ録音は、中庸のフルトヴェングラーの最たるもの。ベルリン・フィルとのライヴ演奏に比してもちろん表現は大人しくまた柔和である。しかし、ここには一切の気負いのない、脱力のフルトヴェングラーの芸術があり、序曲「コリオラン」がこれほど静かに内燃する様にむしろ強力なエネルギーを感じるのである。
フルトヴェングラーはかく語る。
権力そのものではなく、権力の乱用が悪である。ビスマルクではなくして、ヒトラーが悪なのだ。思考する人間がつねに傾向や趨勢のみを「思考する」だけで、平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。平衡状態はただ感知されるだけである。言い換えれば、正しいものは―それはつねに平衡状態である―ただ感知され、体験されるだけであって、およそ認識され、思考されうるものではない。
(1945年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P28
フルトヴェングラーはゲシュタルトでいうところの「思考の鎧」を知っていたのだろうか?真理がバランスの中にあり、それはただ感じるしかないことも彼はわかっており、まさに彼の芸術がその顕現であることを、僕たちは遺された彼のいくつものベートーヴェン演奏を通して悟るのだ。
・ベートーヴェン:序曲「コリオラン」作品62
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1951.10.29Live)
むしろ知性豊かな「静」のベートーヴェン。ライヴでありながら、フルトヴェングラーは(いつもの)没頭を横に置き、ベートーヴェンの音楽をただひたすら冷静に音化する。
いつどんなときもフルトヴェングラーのベートーヴェンは、フルトヴェングラーのそれだ。基本の造形は決して変わることはない。彼の体臭、体質、呼吸のすべてが細部にわたって刻み込まれる序曲「コリオラン」。強いて言うなら変わるのは、オーケストラの音。そして、顕著な例が、冒頭和音のアインザッツのずれ。1951年のライヴ録音は、幅が大きく、それがまた彼のベートーヴェンの器の大きさを示すようで素晴らしい。
ベートーヴェン―この偉大な人間は革命家ではなくして、泰然自若とした実現者である。彼を革命家と呼ばわるのは誤りである。たんなる革命家は決して真に偉大とはなりえない。
(1945年)
~同上書P29
フルトヴェングラーは、ベートーヴェンを真にわかっていたのだと思う。