本当に長い間聴いていなかった。
棚の奥に眠るグレン・グールドの追悼盤。1982年にアナログ盤5枚組でリリースされたボックス・セット。とても大事に聴き、大切に保管してきたけれど、当時はまったく理解できなかった。ティム・ペイジとの対話でも彼は本心を語っているが、モーツァルトへの懐疑をシラミのような作曲家だと表現、そして一刀両断し、実に1958年の時点から既にそうだったと告白していることが真に興味深い(K.330のソナタがこの頃録音されているが、その気持ちを隠し、信仰を装っていた。そして、1970年に再録したときには装うことすらできなくなっていたのだと)。
で、その理由は何かというと彼が本当に興味を持つ音楽は対位法的な音楽、いくつかの主題が同時進行で対位法的に展開していって激昂するような音楽だけなのだと。
なるほど、グレン・グールドは意図的にモーツァルトを破壊したということだ。
アナログ盤セットの解説は柴田南雄氏。これがまたグールドのモーツァルトを奇異であると認めながら、決して単なる資料に終わらず今後も聴き継がれるだろうと締めくくっているところに柴田氏の音楽家、あるいは評論家としてのセンスが輝いており、素敵。
しかし、グールドはむしろそれを決してやらないばかりか、通念としてのモーツァルトの演奏スタイルに故意に逆らうことばかりやっている。考えられぬくらいの速いテンポ、突然のスタッカート、従来の慣習とは逆の強弱のつけ方や逆のレガートとスタッカートの選択、アルページョを上から逆に、いわゆる逆アルページョをやってみたり・・・。
では、グールドのやっていることは何か。
少しばかり深刻というか大袈裟な言い方になるが、しばしば人間には原点に帰って出直す、ということをするものだ。
グールドのモーツァルト演奏は、いわばケージにおける「4分33秒」であるとわたくしは考える。グールドはピアニストだからピアノを黙らせるのではない。彼は、彼の好みの、あるいは彼の信じる、彼が黙示を得た古典様式の演奏スタイルというものを展開したいのである。
グールドが彼の創造的な古典演奏様式を展開する媒体にモーツァルトのソナタを選んだ、ということはじつにグールドらしい、この上賢明なやり方であった。(中略)天衣無縫の天才、西洋音楽の嫡出子、優雅と上品の代名詞、神の隣に住む、否、美神そのものの化身と信じられているモーツァルトを、自己の大胆な演奏理念の実践の踏み台とした。
久しぶりにCDセットをプレーヤーに載せた。
不思議に感動した。初めて「わかった」気がした。
これはモーツァルトへの挑戦ではなく、既成の「モーツァルトらしさ」、「モーツァルトはこうあらねば」、「古典派とはこうだ」という、現代まで続く古くからの体制(いわばメンタルモデル)に対する挑戦状だったのだ。
ザ・グレン・グールド・コレクション
モーツァルト:
・ピアノ・ソナタ全集
・幻想曲ニ短調K.397(385g)
・幻想曲ハ短調K.475
・ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491
・幻想曲とフーガハ長調K.394(383a)
グレン・グールド(ピアノ)
ワルター・ジュスキント指揮CBC交響楽団
上記セットにはK.330の旧録音も収録されているが、聴き比べてみると、58年当時から間違いなくグレン・グールド!エキセントリックこの上ない(笑)。
柴田氏は「旧録音では既に風変わりなモーツァルトを指向しているが、はっきりと新しい様式を打ち立てようとの意志はいまだあらわれていない。新録音の方では、テンポだけの問題ではなく、その間にまったき意識の変革があることをはっきり示している」と指摘するが、とはいえ、ピアニスト本人の言葉では、モーツァルト=シラミ説である(笑)。これは半ば冗談、挑発としてのものだろうけれど、とにかく一般の「既成概念」というものを打ち壊そうとしていたことは間違いない。
本日、システム思考ワークショップを開催した。システム思考は、「事象」を「見える化」できることに優れているが、多くの人は事象の変化の過程に自身の意志を無視してしまいがちである。なるほど、凡人は自身を客観視できないということだ。グレン・グールドの凄さは、主体的でありながら自身を「システム(音楽界)」の当事者として中に置けたこと、すなわち「客体」として明確に認識できたことにある。そのことが彼のモーツァルトを聴いてやっとわかった。とにかく「すべて」が面白い(さすがに18歳の僕にはキャッチし切れなかった)。