インバル指揮フランクフルト放送響のベルリオーズ「イタリアのハロルド」(1988.3録音)を聴いて思ふ

人間は、芸術作品の「媒介」なんだとあらためて思う次第。
個性は、創造物にも見事に反映される。たとえその作品をよく知らずとも、その作曲家の別の作品を熟知していれば、どこかで聴いたことがあるという記憶がその音調から喚起される。
インスピレーションが降りたとしても、一旦アウトプットすれば、どうしてもその人間の思考や感情の色が付いてしまうということだろうか。

作曲家の生み出した音楽を、いかにセンス良く再現できるかが演奏家の腕の見せどころ。

かの一曲を聞き給わば閣下は容易に小生の胸中を知り給うべし。かの曲は長くして二段に分たれ候。初めは伊太利なるアルブッツェの山里の夕暮を巡礼の人々祈禱の歌をうたいつつ行くさまを、次の段に入りては夜となりて山颪の音静まり星きらめく時、里人の誰れとも知らずそが恋人の窓の下に誘いの調弾くさまを写す。凡てかかる山里の空気、色彩、物音をば百人に近き楽師の合奏する中に、唯だ一梃のアルト(その音色稍低くさびたるヴィヨロンに等しき楽器)はチャイルド・ハロルドと限らんよりは、寧其等に等しき憂愁を抱く旅人の心を奏で候。清涼なる伊太利の山里の夕暮を眺めつつ彷徨う旅人の心の淋しさよ。小生は水の如く吠え、風の如く消ゆるオーケストルの中に、断えては続くアルトの音色の悲しさを生涯忘るる事無かるべしと存じ候。小生はこのアルトの喞ちの如く独り唯だ独り、淋しき異郷の旅をつづけたく存じ居り候。
「ひとり旅」
永井荷風「ふらんす物語」(新潮文庫)P158-159

フランス留学中に聴いたベルリオーズを、何と個性豊かに表現できる荷風の文才。
それにしてもベルリオーズの、物語を音化する群を抜いた才能に感嘆。
一聴、いかにもエクトル・ベルリオーズ的大袈裟でありながら、繊細さ併せ持ついぶし銀の傑作。幻想交響曲同様「固定楽想」が頻出する浪漫音楽は、ひとたび理解したとき、旋律が耳について離れない。

エリアフ・インバルの棒が閃光を放つ。全曲を通じ、バスの動きが何と煽動的、かつ官能的であることよ。また、ユーリ・バシュメットの独奏ヴィオラの艶と潤い!
第1楽章「山におけるハロルド、憂愁、幸福と歓喜の場面」冒頭、管弦楽提示部の魅力的な響き。あるいは、ハロルドを表すヴィオラ独奏が出る瞬間の恍惚美は浪漫の極致。何より第2楽章「夕べの祈禱を歌う巡礼の行進」での、低弦のピツィカートに支えられ、行進を披露する独奏ヴィオラの旋律の親しみやすさ!

・ベルリオーズ:ヴィオラ独奏付き交響曲「イタリアのハロルド」作品16(1834)
ユーリ・バシュメット(ヴィオラ)
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(1988.3.24&25録音)

第3楽章「アブルッチの山人が、その愛人に寄せるセレナード」の、仄々とした、懐かしい調べ。インバルの、音楽への没入具合も並大抵でないようだ。指揮者の思念と作曲家の感性が一体となるような音物語に、僕は思わず感応する(こういうところがベルリオーズのねらいなのか、作曲家としての見事なマジックだと思う)。そして、終楽章「山賊の饗宴、前景の追想」の、どこか冷静な狂喜乱舞はインバルの真骨頂(それでこそ誇大妄想癖者ベルリオーズの音楽が生きるのだ)。

「イタリアのハロルド」の音調は、「幻想交響曲」の音調そのもの。ほとんど双生児(もっとステージにかけられ、一般にもっと聴かれても良いのにと思う)。

この本(回想録)を読むかぎり、ベルリオーズの場合、生まれながらの資質と彼をとり囲む環境との間に引力がはたらき合っているのが認められる。彼にはパリでのあらゆることが忌まわしかった。それでいて、パリを離れることはできない。この嫌悪すべきパリこそ、彼の世界だからだ。結局のところ、ベルリオーズの最大の悩みは、理想のオペラを完成させることができなかったということだ。
(1870年5月7日土曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記1」(東海大学出版会)P517

コジマに語ったリヒャルト・ワーグナーのこの言葉は、いかにも自己中心的解釈のように思えるものの、ベルリオーズが環境と自身の個性との矛盾の中にいたという指摘は的を射ているように僕は思う。

 

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