クリップス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管 モーツァルト 交響曲第35番ニ長調K.385(1972.6録音)ほか

奇人変人グレン・グールドは、ヨーゼフ・クリップスを絶賛する。
1977年8月24日(水)に放送されたCBCのラジオ番組でのことだ。

故ヨーゼフ・クリップス—私が畏敬の念をもって思い出すこの共演者、友人は、私に言わせれば、今日最も過小評価されている指揮者です。特に彼のモーツァルト解釈は、まったく魔法のようです。(交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」全曲を聴かせる)こうした音楽を演奏するには、つまり、こうした完全な均衡、ものがあるべき場所にきちんと収まっている感覚を伝える音楽を演奏するには、たいへんな安心感を抱いていなくてはなりません。この演奏から誰もが受けるのは、バランスに関するあらゆる判断、強弱に関するあらゆる配慮が必然的で、このテンポでしか聴くことしか考えられないという印象です。私は取りたててモーツァルトの音楽が好きな人間ではありません(この冒瀆的な発言の理由は別の話ではあります)。しかしクリップスの指揮で聴くと、あらゆる不満があっさりと消え去ってしまいます。
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P49-50

グールドの言う「完全な均衡」とは何か?
それは「強烈な個性」だと彼は説明していることからいわゆる「我(エゴ)」だと解釈できる。そう、これぞ無為自然のモーツァルトだというのである。
(しかしながら、人一倍強烈な個性の持ち主であるグールドが自分のことを棚に上げてそんなことを言うのだから、吃驚仰天だ。本人には自覚がなかったのだろうか)

かたや、彼の解釈はロマン派的な自己表出の試みでもありません。フルトヴェングラーやメンゲルベルクやストコフスキーに代表される伝統—すなわち、強烈な個性や、それこそ自己耽溺までもが込められる伝統—は、クリップスには無縁でした。
~同上書P50

クリップスは戦後最速でウィーンの指揮台に復帰したそうだが、それは彼がナチス協力の嫌疑をかけられなかったかららしい。自身の立ち位置を政治的にも(あいまいな態度でなく)きちんと守り通したというのも、彼の演奏スタイルの正統性を物語る。

グールドが挙げた「ハフナー」交響曲を聴く。

モーツァルト:
・交響曲第31番ニ長調K.297(300a)「パリ」(1972.11録音)
・アンダンテ~交響曲第31番K.297「パリ」第2楽章の初版稿(1973.9録音)
・交響曲第35番ニ長調K.385「ハフナー」(1972.6録音)
・交響曲第36番ハ長調K.425「リンツ」(1973.6録音)
ヨーゼフ・クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

クリップス最晩年のモーツァルトの神々しさをあらためて知る。
「ハフナー」は確かに「完璧な均衡」の中にあるが、「リンツ」についても同様。
特別なことを施さずとも、聴く者の魂までをも鷲掴みにする演奏に、確かにグレン・グールドの慧眼は「正」だったのだろうと思う。

グールドが、クリップスのスタイルを見習って「完璧な均衡」を持つモーツァルトを演奏していたなら世界は大きく塗り替えられていただろうと想像する。(もったいないことだ)

私は演奏会活動を楽しめませんでしたし、そのあいだの人生に懐かしい思い出はほとんどないのですが、そのほかの不毛な演奏会でヨーゼフ・クリップスと共演できたことへの感謝の気持ちが絶えることはありません。そして、レコード会社の契約の関係で、ともに録音を作れなかったことを私は悔やみ続けるでしょう。
~同上書P52

グールドは正直だ。

クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管のモーツァルトK.297(1972録音)を聴いて思ふ クリップス指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管のモーツァルトK.297(1972録音)を聴いて思ふ

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