ワルター指揮コロンビア響 マーラー 交響曲第9番(1961.1-2録音)

ブルーノ・ワルターの師グスタフ・マーラーとの最後の思い出。

つぎにウィーンで会ったとき、私は下調べのために「大地の歌」の総譜を渡された。新しい作品を彼自身が初演しないのは、これがはじめてであった—おそらくは興奮を恐れたのであろう。私はこの曲を研究し、またとなく情熱的で、苦渋で、諦念に溢れ、しかも人を祝福する、別離と消滅のこのひびき、死神の手に触れられた者のこの最後の告白とともに、このうえなく恐ろしい感動の時を過ごした。オーストリアの音楽家が中国の詩人と結んだ晩年の緊密な友情は、さらに交響的な余韻を残していた。
内垣啓一・渡辺健訳「主題と変奏―ブルーノ・ワルター回想録」(白水社)P252-253

ワルターの残した3種の「大地の歌」(1936/1952/1960)(正規録音)はいずれも素晴らしい。相反する感情が混在する屈指の名曲は、西洋的なものと東洋的なものが統合された音楽史上の頂点の一つであると言っても言い過ぎではない。そしてワルターは続けて次のように書いている。

マーラーの「第九」、これもまた去ってゆく者の浄化された感情、死神の影に包まれている。私はこの作品の総譜を、マーラーの死後になってから見たのだが、アルマの希願によって、「大地の歌」の総譜と同時に出版した。彼が自分の耳でこれらふたつの作品を聴くことは、もうなかったのである。
~同上書P253

マーラーの交響曲第9番については、おそらくワルターのこの言葉が後世に与えた印象が大きいだろう、死の影、浄化の感情など、確かにそういわれればそのように聴こえるが、純粋な、生の肯定、未来の希望の音楽であると逆に捉えることも今は可能だ(実際そのような解釈もある)。特に、ワルターが最晩年に残したこの曲の録音は、少年時代の僕が繰り返し愛聴したものだけれど、今あらためて傾聴するに及び、死を前にした老指揮者が、マーラーへの憧憬と尊敬、そして自身の残された、生命の限りを作品に存分に注ぎ込み、果敢に挑戦せんとレコーディングに臨んだであろうもののように思われる。それゆえ聴いていて心底感動するのだ(刷り込みのせいもあるかもしれないが)。

マーラー最後の時をワルターは綴る。

私がウィーンでドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」の準備に没頭していたとき、最悪の知らせが届いた。私は休暇をとり、マーラーの妹ユスティーネ・ロゼーとともにパリへ行った。ヌユィのサナトリウムにいた彼は、絶望的な状態にあった。彼の作品について話すと、彼は苦しそうに答えた。私は彼をただ《楽しませる》ほうがよいと考えた。これは実際なんどか成功した。やがてはっきりしたのは、幾多のいやな思い出があるにもかかわらず、彼がウィーンへの憧れを感じていることだった。そこでアルマは、彼をウィーンにつれて行くことにした。5月18日の夜、危篤の知らせを受けた私は、サナトリウム・レーフへ急いだ。私が着いてまもなく、彼はこの世を去ったのである。ただならぬ嵐の夜に、モルとロゼーと私とが柩につきしたがって、グリンツィング墓地の礼拝堂まで行った。翌日なきがらが埋葬されたとき、山のような群衆が畏敬に満ちた沈黙のうちに立っていた。だが私は「巨人」のなかでショッペが死ぬくだりの、ジャン・パウルの崇高な言葉を思いだした。それはマーラーの死にまったくふさわしいものであった。「なぜならおまえは生の背後に、生よりも高いものを求めていたのだ。おまえの自我でも、死ぬべき人でも、不死の人でもなく、永遠者を、全にした第一の者を、神をこそ求めていたのだ・・・いまおまえは本然の存在のうちに憩っている。死は暗い心から、息苦しい生の雲をとり払い、おまえがかくも長いあいだ求めた永遠の光は、蔽われることなく照っている。そしておまえはその光の輝きとなって、ふたたび火のなかに住むのだ」。
~同上書P253-254

マーラーが愛したジャン・パウルの言葉がすべてを物語る。そして、ワルターの指揮する「第九」には同様の光が差し、燦然と輝くのだ。

・マーラー:交響曲第9番ニ長調(1909)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団(1961.1.16, 18, 28, 30 &2.2, 6録音)

ワルター没直後、「ブルーノ・ワルターの思い出に」と銘打たれレコードはリリースされた。
第1楽章アンダンテ・コモドの、一切の余計な情感を排した客観的な解釈に、ワルターの真価を思う。第2楽章は幾分感情的ではあるが、沈潜する舞踏が実に心地良い。
そして、第3楽章ロンド=ブルレスケは、厳しい中に適度の弛緩があり、聴く者に極度の緊張を強いない。やはり白眉は終楽章アダージョだろうか(40余年前の記憶が蘇る)。
ゆったりとしたテンポでワルターは浄化の感情を歌う。寂寥感はもちろんあるが、どこか割り切った、主観に偏らない永遠の具現がここにはあるようだ。コロンビア交響楽団の決して厚いとは言えない管弦楽の響きも功を奏してかクライマックスですら決してうるさくならない。指定通り「死に絶え行くような」コーダの安息よ。

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