タンゴ、ソング&ダンス

Identity Compassライセンシング・トレーニングの2日目。
一通り読み方を学習した後は、ともかく一人でも多くの受験者のプロファイルを読み解き、カウンセリングに活かすというトレーニングに尽きる。それにしてもこのシステム侮れない(笑)。Web上でいい加減に答えていたつもりでも、予想外に的確にデータに反映されており、実にすばらしいと驚嘆の声が漏れた。

あくまで現在の職場、仕事に限定した上でその人の状態が明確になり、かつチーム内でどういうことが起こっているのか、あるいは今後起こりうるのかがほぼ確実に読めるのだから面白くないはずがない。ストレスを回避するための手段、メンタルヘルス問題を解決に導く方法のひとつとして広まることを願う。

意外に繊細な僕は、ちょっとしたことで落ち込み、ストレスを抱え込んでしまうが、一方立ち直りも早い。あまり引っ張らないのである。少し反省が足りないと言えばそうなのかもしれないが、でもやっぱりいつも楽しくいこうよという思いが先立つ。育ちが良いのか悪いのか、それはわからないが、小さいときからそこそこきちんと受け入れてもらっていたから不安感が少ないのだと思う。

ただし、時に自信を喪失し、(密かに・・・苦笑)撃沈するところが玉に瑕。そういえば、小学生の頃は落ち着きがなく、勉強もできない、運動音痴という「のろま」だったから余程のことがない限りあまり褒められた記憶がない。今更親や学校の先生のせいにするわけでもないが、小さな、ごくごく小さな傷を抱えたままずっと歩んできたのかもしれないなとふと思った。

でも、そんなに過去の記憶にいつまでも囚われなくてもよいのだと、何だか今日もまた教えてもらえたよう。明日は3日目。また有意義な一日になりそうだ。頑張る。(少し弱気な文面だが、至って元気なので心配ご無用・・・笑)。

タンゴ、ソング&ダンス
・プレヴィン:タンゴ、ソング&ダンス(アンネ=ゾフィー・ムターに捧ぐ)
・ブラームス:ハンガリー舞曲第1番、6番、7番
・ガーシュウィン:歌劇「ポーギーとベス」から
・クライスラー:美しきロスマリン、ウィーン奇想曲、愛の悲しみ
・フォーレ:ヴァイオリン・ソナタ第1番
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
アンドレ・プレヴィン、ランバート・オーキス(ピアノ)

プレヴィンがムターに捧げた音楽が最高。現代の様々な音楽的技法を駆使して愛する女性に贈る愛のメッセージ!
それに応えるように、ヨアヒム編によるハンガリー舞曲第1番の妖艶な節回しが男の心をくすぐる。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

プレヴィンというと、前にも何度も話題にしましたが、私の父と同じ1929年の生まれ。
1929年生まれといえば、先頃父の誕生日と同じ7月7日に亡くなったヨゼフ・スークもそう。スークの誕生日8月8日も近くなり、スークの思い出に纏わる、諏訪内晶子さんによる、とても微笑ましく、かつ感銘を受けたある文章のことをふと思い出しました。

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 ニューヨークで学校に通いながら、機会を求めては先輩の音楽家に教えを乞う日々が続いている。その中で、現代ヴァイオリン界最高の名手の一人に挙げられるヨゼフ・スーク先生をプラハの自宅訪問した数時間の印象が、強烈に心に残った。
 スーク先生は、大作曲家ドヴォルザークの曾孫(ひまご)。チェコ音楽界のリーダーの一人でもあられる。いかにも、かつての社会主義国という雰囲気の質素なアパートに住んでおられた。玄関を入ると、真正面に楽譜が入った棚があって、その横に大変な数のミニカーのコレクションが並べられている、もう一つの棚が置かれてある。およそ数百台といった感じで、とても勘定できるような数ではない。謹厳で端正なスーク先生のヴァイオリンと、愉快なミニカーの大コレクションがどうしても頭の中で結びつかなくて、思わず玄関先で吹き出しそうになってしまった。
 二時間ずつ、二回お邪魔したのであるが、先生はほとんど何も仰らない。私の弾いている間、頭を抱えて座っておられるが、部屋の中をウロウロ歩いていらっしゃるだけで、絶対に私の方を見ない。しかし、何も仰らなくても、先生がそこにおいでになるというだけで、持って行ったベートーヴェンやブラームスが、常日頃よりもイメージが膨らんで弾けたような気がした。存在だけで相手をそうさせてしまう力というものを、私は痛いほど味わわされたような気がする。カラヤンがタクトを振ると、普段吹けない箇所がすっと通ってしまうんだと、苦笑混じりに語ったフルート奏者がいたが、私も同じような経験をさせられたらしい。世の中には不思議なことがあるものである。

 ヴァイオリンを弾くという行為は、今、私の生きている証(あかし)である。だがジュリアード音楽院に通いながら、その傍ら、私はコロンビア大学で政治思想史の講義を聴いたり、小さい頃から習っているクラシックバレエのレッスンにも通っている。ニューヨークの日々は一見多彩に見えるが、私の場合、それらの行動は総て「ヴァイオリンを弾く」という一点に繋がり、集約されている。
 幸い私は日本で、ヴァイオリン界最高の流派の一つを継承する師を得た。そして、海外においても、多くの方々から語りきれないほどの教えを受けた。しかし深夜、楽聖の譜面と向かい合い、記された音符の奥に潜む作曲者の魂の声を読み取ろうと試みると、その都度自分の能力の至らなさと、勉強不足を痛感させられるのである。私たち音楽を志す者にとって、終着駅はついに来ないのではないかとすら思われるこの頃であるが、もしそうであるのなら、ひたすら学び続ける人生であってもいいと、最近思い始めるようになった。

『ヴァイオリンと翔る』(1995年12月20日発行 日本放送出版協会)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%81%A8%E7%BF%94%E3%82%8B-%E8%AB%8F%E8%A8%AA%E5%86%85-%E6%99%B6%E5%AD%90/dp/4140052198/ref=sr_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1312580476&sr=1-2

《第三章 師との出会い》より

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何かを失うということは、何かを得るということ。

諏訪内さんにもムターにも私にも岡本さんにも多くの過去があり、多くの何かを失い、その代わりに、多くの何かを得ているはずです。

安易に「たら、れば」に逃げないことです。
肝心なのは、これから先「やるか、やらないか」だけなのです。

「ひたすら学び続ける人生であってもいい」

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
引用の諏訪内さんの文章、いいですね。音楽家に限らず人生に終わりはないですよね、本当に。
ひたすら学び続けたいです。

>安易に「たら、れば」に逃げないことです。
肝心なのは、これから先「やるか、やらないか」だけなのです。

ありがとうございます。響きます!

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