
戦後80年。
戦争を知らない僕たちにも、わずか1世紀にも満たない過去に起こった惨劇を想像することは決して困難ではない。当時の音盤に、録音に刻まれる音を聴けば見えることがある。そこには悲劇的な音楽もあれば、喜劇のような明快な音楽もある。あえて逃避しているのかと思わせるような明るさで。
ボックス・セットは過去の素晴らしいレコードの投げ売りのようなものだ。
安価に気安く手に取ることがあってもそのすべてに耳を通すことはなかなか難しい。
迂闊にも長らく埋もれさせておいたボックス・セットの中に素晴らしい音源を発見した。
どうやらモーツァルトは初出らしい。道理で。
フルトヴェングラーの推薦を受け、首席指揮者に就任したヨーゼフ・カイルベルトがプラハ・ドイツ・フィルハーモニー(バンベルク響の前身)を振っての古い録音。
モーツァルト(18世紀)とプフィッツナー(20世紀)とシューマン(19世紀)。独墺音楽の伝統を、これでもかといわんばかりの正統な、そしていかにも戦前・戦中の、いまだ19世紀浪漫を捨て去ることのない重厚かつくすんだ音色で再生するカイルベルトの真骨頂。
これぞ「正しく音楽をする」という行為の代名詞のような録音だ。
モーツァルトに関しては、感情を排した、とても即物的な解釈のように聴こえるところがミソ。淡々とした中に滋味を感じる美しさ。とても30代前半の指揮とは思えぬ枯れた味わいにカイルベルトの天才を思う。
ハンス・プフィッツナーが絶品!
さすがはフルトヴェングラーが推薦した指揮者だけある。只者ではないことがここからも明らかだ。
愛妻を失い、創作意欲の殺がれたパレストリーナの苦悩。美しい。
そして、ロベルト・シューマンの「春」の交響曲は、活気に満ち、生き生きと紡がれる。
(どちらかというとフロレスタンを重視した、積極的かつ情熱的な解釈だ)
(ともすると、晦渋な表現になりがちなこの交響曲が、いかにも「春」を待ち遠しく思う若々しさを伴う「歌」に溢れる)
新しくて、大胆な旋律をみつけなければならぬ。
人間の心の深奥へ光を送ること—これが芸術家の使命である!
誰も、自分の知っている以上のことはできない。誰も、自分のできる以上に知ることは、できない。
文学では、最近の傑作を知らないと教養のないものとされる。音楽でも、そのくらいにならないといけない。
芸術家が幾日も、幾月も、幾年も、かかって思案したことを、しろうとの愛好者は一言で抹殺する気かしら?—
「寸言集」
~シューマン著/吉田秀和訳「音楽と音楽家」(岩波文庫)P219
素人好事家の辛辣な批評があったのかどうか知らないが、ロベルトは志を新たにする。
「・・・しかし、その約束は果たされたでしょうか? ああ、ノーです!—今の国王は口先の人間、夢想家、ロマンチックな夢を追ってばかりいる人間です、あなたのようにです、お嬢様。・・・つまり考えていただきたいんです、哲学者や詩人が一つの真理、一つの考え方、一つのプリンシプルをついにまた克服してしまい、追い越してしまったころ、ようやくそこへたどりついた国王なる者が、おもむろに現われ、古くなったものを最も新しい最良のものと考えて、それによって行動しなくてはならないと思いこむのです。・・・そうなんです、国王の位置などそういうものです! 国王も人間の一人であるだけでなく、人間のなかでも最低の人間であって、常にはるか後方に取り残されている人間です。・・・ああ、自由戦争のときに、元気と感激にみちた若さに恵まれていたのに、今では憐れな俗物になってしまった学生組合の大学生、ドイツはその大学生と同じ道を歩いたのです。・・・」
~トーマス・マン作/望月市恵訳「ブッデンブローク家の人々(上)」(岩波文庫)P199