いかにもヴェルディという予定調和的悲劇。ほとんどこれは「オーリードのイフィジェニー」の焼き直しのようにも映る。神の神託をとるか父親としての娘への愛をとるか、そのはざ間で苦悶したアガメムノンに対し、フランチェスコ・フォスカリは総督としての責務、そして父親として息子ヤコポへの愛情との板挟みで苦悩する。
しかし、グルックの物語は、女神ディアーヌにより生贄としてではなく巫女として天に迎えられるというハッピー・エンディングである一方で、「2人のフォスカリ」では、ヤコポも死に、そして総督の座を奪われたフランチェスコも悶死するという何とも激烈な悲劇となっている。
これぞ19世紀的オペラの、ヴェルディ・オペラの定型であるといえるが、あくまで人間の心理を主体に劇的な物語の展開を試みたことがヴェルディの最大の功績であり、このあまりに人間臭い内容が当時の大衆を熱狂の渦に巻き込んだのだろうが、突拍子もない、そして深みのない結末にどうしても底の浅さを感じさせずにはいられない。僕がイタリア・オペラ、すなわちヴェルディを長い間苦手としてきた所以はこういうところにあるのだとわかった。
第3幕最後に総督の装束を一切合財外したフランチェスコ・フォスカリは言う。
わしから息子だけでなく名誉の冠まで奪うのか!と。
何という固執、何という自尊心・・・。それに対しての10人会議の応えはある意味真っ当だ。
愛する家族と休息を楽しまれるが良い、と。
ヤコポの死もフランチェスコの死も、ヴェルディにおいては決して幸せなものではない。この世に名残をおいての、それも怨みや辛みという負の感情を残しての死というのは最も悲しむべきものだ。しかしそれは、彼らの生前の行いに発せられるものであったことも容易に想像できる。フランチェスコが権力をとるのか愛をとるのか、その間で苦悩したその行為自体が、そしてヤコポがたとえ冤罪であろうと牢獄に入らざるを得なかった事実そのものがそもそも問題なのだ。火のないところに煙は出ない。
ヴァルディ:歌劇「二人のフォスカリ」
レーオ・ヌッチ(フランチェスコ・フォスカリ、バリトン)
ロベルト・デ・ビアージョ(ヤコポ・フォスカリ、テノール)
タチアナ・セルジャン(ルクレツィア・コンタリーニ、ソプラノ)
ロベルト・タリアヴィーニ(ヤコポ・ロレダーノ、バス)
グレゴリー・ボンファッティ(バルバリーゴ、テノール)
マルチェッラ・ポリドーリ(ピサーナ、ソプラノ)
マウロ・ブッフォーリ(ファンテ、テノール)
アレッサンドロ・ビアンキーニ(総督の従僕、バス)
パルマ王立劇場合唱団
ドナート・レンツェッティ指揮パルマ王立劇場管弦楽団
ジョセフ・フランコーニ・リー(演出)(2009.10.8&16Live)
まずは第1幕最後のフランチェスコ(レーオ・ヌッチ)とルクレツィア(タチアナ・セルジャン)の二重唱の、激しいやりとり、言葉の応酬(心理戦)にヴェルディの才能をみる。終始暗鬱な雰囲気を醸すこのオペラの主人公は2人のフォスカリというよりむしろヤコポの妻であるルクレツィアであろう。この気性の激しさはまさに愛情の裏返しだ。
そして、第2幕最後の、ヤコポ(ロベルト・デ・ビアージョ)の独唱に発し、ルクレツィアとピサーナ(マルチェッラ・ポリドーリ)、バルバリーゴ(グレゴリー・ボンファッティ)、ロレダーノ(ロベルト・タリアヴィーニ)、大勢の貴族、そして総督フランチェスコ(レーオ・ヌッチ)までを巻き込んでの壮大なアンサンブルが最高の聴きどころである。
それにしてもパルマ王立劇場の舞台美術の赤と黒、光と翳のコントラストの美しさ!
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これは日本初演してほしいオペラですね。ヴェルディでもまだ、知られていないオペラをどんどん、日本初演してほしいものです。
>畑山千恵子様
同感です。