フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ベートーヴェン 大フーガ変ロ長調作品133(1954.8.30Live)ほか

晩年のベートーヴェンに対する私の情熱的な若々しい心がまえ(中年期のヴァーグナーにも看取されるものであるが)、また晩年のゲーテに対してのそれが、いかに異常なものであったかが、最近にしてわかってきた。—私の本性の予感。
(カレンダーより、1936年)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P17

「五十にして天命を知る」とは孔子の言葉だが、フルトヴェングラーも齢50にして、ついに自身の天命に気づいたのだろう。その姿勢は、異常さではなくむしろ傑出した素晴らしさだ。
(後期ベートーヴェンの真意をつかみ取るには相応の年齢を重ねなければならない)

また、同じく1936年のカレンダーへのメモ書きには次のようにある。

人間的感動の大部分は人間の内部にあるのではなく、人と人との間にある。
~同上書P17

フルトヴェングラーがライヴで燃えるのは、そういう理由だからだ。
目前に、リアルに対象があっての感動。それは時空を超えた今、古い録音を超えてすら機能する。

・ベートーヴェン:レオノーレ序曲第3番作品72a(1944.6.2Live)
・ブラームス:交響曲第2番ニ長調作品73(1945.1.28Live)
・ベートーヴェン:大フーガ変ロ長調作品133(1954.8.30Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

戦時中の記録とは思えないレオノーレ序曲の鮮明な音質にまずは感激する。

亡命前夜の、有名なブラームスの演奏についてももはや僕が書くことはない。

フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル ブラームス 交響曲第2番(1945.1.28Live)

今は、ザルツブルク音楽祭でのウィーン・フィルとの最後のコンサートの記録の素晴らしさについて書き留めておきたい。

この複雑な音楽にあって、フルトヴェングラーの演奏はいつになく透明感を獲得する。
すなわちそれはウィーン・フィルの面々の覚悟の表れなのかどうなのか、よもや巨匠が3ヶ月後に逝ってしまうなど想像もしていなかっただろうが、(無意識化のつながりとでもいうのか)縦の線が揃い、余分なゆらぎがある意味削ぎ落され、造形力も見事で、実に見通しが良いのである。おそらくこのときのフルトヴェングラーは大きくは何もしていないだろう。これぞオーケストラの自主性を伴った、巨匠への挽歌のような優れた演奏だと僕は思うのだ。
(特に、第3のフーガとその展開パートにその趣きが著しい)
こういう演奏を聴くと、やっぱりフルトヴェングラーにはもう少し、少なくともあと10年は長生きしてほしかった。

フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第7番&第8番(1954.8.30Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第7番&第8番(1954.8.30Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラーのベートーヴェン(1954.8.30Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラーのベートーヴェン(1954.8.30Live)を聴いて思ふ フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン第5番(1947.5.27Live)ほかを聴いて思ふ

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