フルトヴェングラー、ドン

人は誰でも他人と比べて自分がどうだという物差しでモノを見る癖がある。「好き嫌い」、「能力の是非」、「明暗」、「陰陽」で「判断」してしまうのだ。
しかし、自然も人間も全てこの世に存在するものは表裏一体で、何が正しいとか何が間違っているとか、絶対的な「答え」など存在しないように思うのである。その意味では、身の周りに起こり、存在する全てに対して「感謝」し、「認める」ことができるようになるまで人は自分自身と闘い続けなければならないのだろう。「清濁あわせのむ」姿勢、「玉石混交」。「聖」も「俗」も含めて360度見渡せる余裕と「鳥の目」。

ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団


第1楽章「田舎に到着して晴れ晴れとした気分がよみがえる」
第2楽章「小川のほとりの情景」
第3楽章「農民達の楽しい集い」
第4楽章「雷雨、嵐」
第5楽章「牧人の歌−嵐の後の喜ばしく感謝に満ちた気分」

楽聖ベートーヴェンが創作した「神を讃える音楽」。「傑作の森」といわれる時期からベートーヴェンの音楽は「達観」している。彼は「田園」交響曲によって「自然」と「人間の喜怒哀楽」を表現しようとした。「宇宙」、「自然」と「人」とは表裏一体の「有機的連鎖物」であり、善悪という基準でなく、ただ純粋に「人」と「自然」を観察し、それを「音」という人類共通の「波動」に転化し、表現した最美のメッセージなのだ。

ところで、今日はヴィルヘルム・フルトヴェングラーの命日である。高校生のとき初めて彼の演奏したLPレコードに接して以来、最も敬愛する指揮者の一人として残された録音のほとんどを聴いてきた。永遠の名盤と冠される録音は多数あるが、中で僕が最高と断定するレコーディングがこの「田園」。1952 年11月のスタジオ録音。
とにかく、「魂」の純化というか、こんなにも精神性が高いベートーヴェン演奏はCDにしろライブにしろ聴いたことがない。作曲者の真意を理解し、「宇宙」「自然」と「人間」の営みが一体化した「安寧」と「闘争」を表現した音楽は稀である。ベートーヴェンの「精神性」の深淵まで到達しうる唯一無二の演奏なのではないかと思わせるほどの「深さ」、「高さ」なのである。とにかく先入観を捨てて、一度真剣に対峙してみていただきたい。そういう演奏である。

※ちなみに、1991年のこの日、ジョルジュ・ドンもエイズで亡くなっている。今日はこの二人の不世出の芸術家たちに黙祷だ。

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アレグロ・コン・ブリオ~第5章 » Blog Archive » フルトヴェングラーの「田園」交響曲(SACDハイブリッド盤)

[…] ベートーヴェン: ・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1952.11.24&25録音) ・交響曲第8番ヘ長調作品93(1948.11.13Live) ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 アナログに始まり、EMI初期CD、ブライトクランク盤、などなど「音が良くなった」というふれこみがあるたびに性懲りもなく買った(賛否両論あろうが、実は不自然だけれどあの拡がりのあるブライトクランク盤も僕は好きで、その時の気分によって使い分ける)。最終的にはEMIの初期盤がもっとも優れているという結論に至り、リマスターと称するものに手を出すことはなくなったけれど、昨年生誕125年を記念して国内盤でリリースされたSACDハイブリッドディスクはどうしても我慢ならず手が伸びてしまった。比較してみて、現時点ではSACDに一日の長あり。音の芯が安定しており、地鳴りがするような響きと天から降るような想念が溶け合って、音楽と対峙している最中ほとんど金縛りに遭うよう。 […]

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