
フーゴー・ヴォルフ。
個人的になかなか手に負えない作曲家だが、ヒトラーも好んでいたように、彼の歌曲に接していると、何だか内なる狂気なるものが頭をもたげてくる。特に人間は、「歌」に感化されやすいのかも。何とも不思議なものだ。
だが、私は、その密度、集約性の高さのまえに、脱帽し敬礼はするものの、反面、そこから逃げだしたくなる。この世界には長くいられないという気がしてくる。
あまりにも、せまい空間のなかに、あまりにも精密な書き方がされているのである。同じ半音階的転調をもった和声の流れといっても、ヴァーグナーでは、そのなかに身をひたしていられるのに、ヴォルフではむずかしい。これは、音の空間の規模がちがうからであり、それ以上にヴァーグナーには、ヴォルフが―たぶん!—ついに獲得できなかった、細部において複雑な和音を絶えず使っていたにもかかわらず、巨視的にみた場合、見事な均衡と安定のある和声の進行をつくりあげる感覚があったからではなかったろうか。そうして、私には、この感覚の有無こそ天才の有無をわける大きな標識のような気がするのだ。
~「吉田秀和全集11 私の好きな曲」(白水社)P314
何と見事な推論だろうか。
器の大小とでもいうのか、同じエゴイストであってもワーグナーには「バランスと安定」があったのである。それがヴォルフにはなかった。

「メーリケ歌曲集」を聴いた。
個人的ないち推しは、イアン・ボストリッジのものだが、ベーア、アレン、フィッシャー=ディースカウ、この3人の名バリトンの歌唱を集めたセットの1枚もなかなか素晴らしい。
フィッシャー=ディースカウの風格には誰も敵わない。
そのすべてが、静けさの中で淡々と歌われるのだ。この得も言われぬ音の渦の中に身を置き、僕は夢を見る。例えば「炎の騎士」にみる、声色を変えての物語りの激しい音調の中にも何ともいえぬ安寧を湛えるのだ。
あるいは、トーマス・アレンのいかにもオペラを演じるような歌に僕は惹かれる。
吉田さんは、好きな曲として「ヴァイラの歌」を挙げておられる。
歌詞は実に妙なものだ。ヴァイラというのはメーリケが夢想したオルプリートという名の理想の島、憧れの島を守る女神なのだそうである。そのヴァイラの像がオルプリート島の海岸に立っているらしい。まったく空想的で、非現実的な風景を歌った詩である。
しかし、これにつけたヴォルフの歌のすばらしさ!!
全部で19小節しかないのだが、その小さな音の空間のなかで、音は大きく拡がり、七色の輝きでもって、照り映える。しかも、その音の空間には微妙をきわめた艶やかさと、未聞の隠秘な陰影づけの交代があるのである。
~同上書P308
アレンの歌う「ヴァイラの歌」も、1分半に満たない短時間にあらゆる情感が刻印されており、聴いていてほろっとし、とても懐かしい。
あるいは、冒頭、オラフ・ベーアの「新しい愛」の、神への信仰を愛とするメーリケの言葉を真摯に表現する歌と、続く「眠るみどり児イエス」の静謐な安息の表情にうっとりする。
ただし、吉田さんの言うように、80分弱、確かにこの世界にずっと浸っているのはやっぱり困難だ。