ワルター指揮ニューヨーク・フィル シューベルト 交響曲第9番「ザ・グレイト」(1946.4.22録音)ほか

プロテスタントからカトリックに改宗した宗教哲学者のヘルムート・ファーゼル司祭宛のブルーノ・ワルターの手紙。昵懇な二人らしく、ワルターの同胞への腹を割ったほとんど芸術への信仰告白に近い内容に感動する。

そして、音楽のなかでは私のグレーテルが近くにいる思いをするとき、私は自分になにひとつ「ごまかし」ていないことを存じております。ほかならぬ私の所信では、ベートーヴェン、バッハ、シューベルトなどは、イザヤやヨハネらのように予言者ふうの質であり、霊感を受けている、すなわち、聖霊に満たされています。そして彼らの言葉を理解し、それどころか話すように、私は組織化されておりますので、自分も控え目ながら聖霊の表わすものに与ります。私の演奏が作用するところにもそれを感じます(これを自分の功績などと見ていません)。かくして、私の天性に導かれたところでは恩寵により幸せを感じることが多いのに、より高い認識を音楽外のところで求めようと努めましても、内的高揚にはまれにしか達せず、また達しがたいことになります。
(1939年12月26日付、ヘルムート・ファーゼル司祭に)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P249

ワルターらしく謙虚に自らの芸術の意味を問いかける。確かに彼の指揮するベートーヴェンにもバッハにも、そしてシューベルトにも慈愛が溢れている。作曲家の命を宿す作品を、まったく同質の音楽として創造することが我が使命なんだとワルターは自認するようだ。

ワルターのベートーヴェンは美しい。
ワルターのバッハは敬虔だ。
そして、ワルターのシューベルトは何て力強く、また慈しみに満ちているのだろう。

・シューベルト:交響曲第9番ハ長調D944「ザ・グレイト」(1946.4.22録音)
・ブラームス:合唱と管弦楽のための「運命の歌」作品54(1941.12.15録音)
ウェストミンスター合唱団
ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック

この時代のワルターの音楽はニューヨーク・フィルの分厚いオーケストラの音を駆使し、そこに情熱を注ぎこむかのように内燃する熱気に溢れているのが特長だ。カーネギーホールでの録音によるシューベルトの「ザ・グレイト」も第1楽章アンダンテ—アレグロ・マ・ノン・トロッポから大いなる祝祭気分に満ち、その思いは終楽章アレグロ・ヴィヴァーチェまで持続する。終戦直後の戦勝気分と言っては語弊があるが、勝ち負け関係なく、ワルターの心底の人類への愛情と世界の平和を祈る思いがそこかしこに刻印されているように僕には聴こえる。何よりワルター自身がシューベルトの音楽を楽しんでいることが手に取るようにわかって興味深い。

そして、ブラームスの「運命の歌」にもまたワルターらしい、優しさと激しさが同居する演奏で、感動的。

しかし我らの運命は
いずこにも休らわぬこと。
苦しむ人間は
消える 亡びる
見境もなく 一刻から
また一刻へ
さながら水が岩から
岩へ打ちやられ
はては有耶無耶の際へ落ち入るように。

「ヒュペーリオンの運命の歌」
川村二郎訳「ヘルダーリン詩集」(岩波文庫)P29

転生を幾度も繰り返す我々凡人にあるのは絶え間ない苦だとヘルダーリンは言う。ひょっとするとブラームスもそのことを信じていたのかもしれない。しかし、ひとたびワルターが棒をとると音楽の外面、表現は一気に明るくなるのが不思議だ。
ちなみに、ヘルダーリンは前段で、そもそも天上が明朗で希望に溢れていることを謳っている。ワルターはそこにこそ真実があることがわかっていた。運命とは、苦も楽もすべてを生かすことなんだと悟っているかのように。

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